願い、溢すは

 ぼんやりとそう考えながらリーリエが去ったあとの屋敷内でノーチェは暖炉を見つめる。ある一定の時間が経てばフッ、と掻き消すように炎が消えるよう魔法がかけられたそれは、未だにパチパチと音を立てていた。
 時刻はもうまもなく十一時に差し掛かろうとしている。程好い眠気と、温かさと、疲労に包まれて彼は小さく欠伸を洩らした。

 自分が奴隷のくせに、だの何だのを思っている時間が単純に無駄な時間になり得るのだと気が付くのに、時間が掛かりすぎてしまった。今日の温もりを痛感して、ノーチェは少しだけ卑屈になるのをやめようと考える。

 ――だが、やはり存在を主張し続ける首輪は、彼の思考を後ろ向きなものに変えるにはうってつけだった。

 そっと指先で鉄製のそれに触れて、炎を見つめながらぼんやりと考え込む。何度も思った同じようなこと。この首輪がない状態で――、奴隷ではない状態で終焉に会えていたら、何かが変わっていたのだろうか、と。
 自分ではない自分を求められていると感じているからこそ、彼は奴隷として確立してしまった自分が許せなかった。

 ――しかし、後悔しても何も始まらないということを理解している。
 終焉は夜中にのんびり風呂を堪能するため、ノーチェは終焉を待ちながら考え事に没頭できるのだ。後悔するよりも、今はどう過ごすのが得策かを考えるのが優先だ。

 この街の特性からか、近頃〝商人〟の姿を見かけなくなった。
 ルフランは森に囲まれた場所にあり、街は〝教会〟が支配している。
 このことから〝商人〟達の存在は、あまり意味がない可能性があるのだ。
 街の穢れを彼らは許さない。この街があってこそ、〝教会〟は輝きを放つ。
 ただか奴隷を集めるために街を荒らす〝商人〟たちを、〝教会〟が許すはずもないのだ。

 ――だが、彼らが街を出たという可能性は低い。
 以前ノーチェが〝商人〟達に捕まった際、彼らは困惑した様子で言っていたのだ。まるで恐ろしいものを見たような形相で、「森から出られない」と言っていたのを彼は今でも覚えている。
 つまり、彼らはまだこの場所に滞在しているはずだ。

 しかし、〝商人〟達の姿をめっきり見かけなくなったのもまた事実。以前ならば街の中で定期的に見かけていたり、不意にこの屋敷に訪れることも数回あった。
 本来ならばそうそう見つかるものでもない、と終焉が頭を悩ませていた記憶が新しい。今では特に気にすることもなくなってはいるが、男も男で所在地が明確になってしまっていることは弱点になり得るのだ。

 〝商人〟に狙われ続ける奴隷と、〝教会〟に狙われる終焉。

 改めて考え直すと、やけに複雑な場所に放り込まれてしまったと思う。
 パチ、と火の粉が飛ぶのを視界の端に入れながら、ノーチェは何の気なしに廊下の方へと顔を向けた。燃える木の匂いとは別に、華やかで甘く、特徴的な香りが漂ってきたからだ。彼はその廊下をじっと見つめていると、廊下を頼りない足取りで歩く男の姿を見た。

「……寝るの」

 ――そう、小さく問いかけを投げてみれば、終焉は眠そうな顔でノーチェを見たあと、「ああ」と言う。
 普段の様子なら決して見られることのない表情に、僅かに表情筋が緩みながら彼は席を立った。終焉は一足先に部屋に戻るよう彼に背を向けていて、既に歩き始めている。

 待って、と声も掛けず、ノーチェは男の背を追った。客間を出て数分後、小さく聞こえていた火が燃える音は綺麗さっぱり聞こえなくなるものだから、毎回消える原理が知りたいとそれとなく思う。
 そんな疑問を置き去りにして、終焉が自室の扉を開けるのを彼は見た。男の動きにはまるで無駄な動作がひとつもない。料理や、掃除と同じように、眠るためにただ一直線に部屋へと向かうのだ。
 まるで、巣の位置を頭の中に刻み付けている動物のように。寄り道をすることもなく部屋の中へと入ってしまった。

 ――そんな終焉の部屋を、ノーチェは躊躇うこともなく開けてから、部屋の中へと足を踏み入れる。
 扉を閉めて中を見れば、終焉は一足早く布団の中へと潜り込んでいて。何気なく近付いて顔を見やれば、暖かな布団に満足している子供のような雰囲気を醸し出していた。

 案外可愛い一面がある。

 そう思いながら彼は布団をめくり、何の違和感もなく終焉の布団に入り込む。風呂上がりの温もりを携えた男の体は、湯たんぽのように温かかった。

 寝込んで以来、一人で眠ることすらもままならない彼は、追い出されるまで終焉の傍らで安眠を貪るようになった。程好い薄暗さと、誰か知っている人がいる、という感覚は彼に安心感を抱かせるには十分だ。誰も叩き起こすことはなく、予告なく暴力を振るわれることなどまずない。
 それがどんなに幸せなことなのか――ノーチェは痛感するのだ。

 彼は相変わらず人肌を感じるように、顔を終焉へと寄せて深く息を吸った。眠ろうとする意識が働いて行う深呼吸は、気持ちと気分を変えるにはうってつけなのだ。
 追い出されるまでと思っているものの、終焉がノーチェを追い出す兆しは全く見られない。その事実に喜びすらも感じていると――、ふと、男が目を開いた。

 珍しい、と思った。終焉は一度目を閉じると、滅多なことが起こらない限りは素直に眠りに就くタイプだ。多少意識が浮上したとしても、一言二言溢す程度で、すぐに意識を手放すほど寝付きがいい。

 そんな男がゆっくりと目を開いて、ノーチェを見ていた。
 さすがに追い出されるようになるのだろうか。――そう身構えていると、終焉が小さく唇を開く。

「…………なにか、欲しいものはあるか……?」
「…………?」
「……世間では、今日はなにか、欲しいものを与えるんだそうだ」

 聖夜祭はとある偉人の誕生を祝う前夜祭のようなものである。その前夜に子供達に贈り物を用意して、翌日目を覚ました子供達の歓声を聞く習慣があるようだ。
 実際の由縁などノーチェも、終焉も知っているわけではないが、リーリエ曰く「そういうもの」だという。

 例年通りであるならば、終焉は一人きりでこの屋敷に身を寄せているはずだった。誰もいない部屋の中。人気のない敷地内。灯るはずのない暖炉――そう語る男の言葉を聞く度に、ノーチェはもやもやと、胸の奥に黒い何かを抱える気持ちになる。

 例年――何年も、何年もこの人は一人きりでいたのだ。ノーチェが奴隷になる前も、この男は一人なのだと。何とも言えないほど寂しく、悲しく、虚しさばかりが募るのだ。

 ――だから男は、彼に対して何も用意していないということに対して、申し訳なさを覚えているようだ。折角一緒に過ごしてくれているのに、と溜め息がちに洩らすものだから、ノーチェはじっと考え込む。
 終焉はゆっくりと瞬きをしたあと、再び「欲しいものはあるか」と呟いた。終焉ならばノーチェが何を欲しがっても、何を犠牲にしてでも手に入れて来るのだろう。

 ――たとえば、奴隷ではない状況を望めば、どんな手を使ってでも首輪を取ろうとするのだろう。

 しかし、彼はそれを望むつもりはなかった。

「……いらない」
「…………そうか」

 首を小さく横に振って、ノーチェは終焉の申し出を断る。その様子を見かねた終焉は、多少残念そうに返事をしたが、現状を踏まえた上でノーチェの返答に納得したように微笑む。ほんのり優しく、柔和なそれに彼の胸の奥が温まるような気がした。
 綺麗な顔だ。本当に綺麗で、まるで男とは思えないほどの顔立ちだ。人付き合いが多ければ何人もの女が虜になっただろうし、終焉が女であればたくさんの男達が言い寄ってきただろう。

 ――そう、思わざるを得ない端正な顔立ちだった。
 だからだろうか。ほんのり芽生えた好意と、妙な執着に彼の口が突き動かされる。

「…………アンタがいい」

 ぽつりと呟いたノーチェの言葉に、終焉が口許の緩みを解く。

「…………アンタがいれば、それでいい……アンタと一緒にいたい……」

 しっかりと眠たげな男に届いているのだろうか。
 ――そんな不安から、ノーチェは再度同じ言葉をはっきりと口にした。まるで一世一代の告白のように思った言葉を並べ立てて、終焉の様子を窺う。

 思いの外男は眠気に襲われている所為か、大きな変化こそは見受けられなかった。代わりに、茫然とノーチェを眺め、言葉を失ったように唇を僅かに開けている。聞こえていないわけではなさそうだが――、返事には困っているように見えた。

 引かれてしまっただろうか。

 ――そんな懸念を抱くと、不思議と胸の奥がドクドクと低く鳴っている気がした。居心地が悪く、あまりにも気分が悪くなりそうで。彼は堪らず先程の言葉を否定したくなったが、自分の気持ちをなかったことにするつもりもなかった。

 ただ、無言の時間がひたすらに苦痛であったのは確かだ。

 あまりのもどかしさにノーチェが遂に顔を逸らしてから数秒。終焉の手が微かに動き、ノーチェの体に片腕が覆い被さる。
 何かと思いノーチェはその手の行方を目で追っていたが、不意に頭上から「寒い」という唸るような呟きが降り注いだ。

「もう少し、寄って……雪が……ふって……」

 男の呟きに彼は自分の頬に伝う空気が、先程よりもいっそう冷たくなったのを痛感した。鋭い針で刺されたかのような冷たさに思わず終焉へとすり寄るが、男からの返答はもうない。
 代わりに途切れた言葉のあとに聞こえてくるのは、規則正しい寝息だけだった。

「…………寝てら」

 ほんの少しだけ焦らされたような感覚に陥ったが、直後ノーチェも大きな欠伸を溢してから、体を震わせて終焉の服を掴む。
 風呂上がりの男の体は温かく、柔らかで落ち着く甘い香りがした。密着した状態のくせに全く鼓動が聞こえない点を除くと、やはり男は生きているのだと実感する。

 ――生きているのだ。彼が漸く好きだと自覚し始めた家主は、紛れもなく息もしているのだ。違うことなど何もない。万物が終焉を嫌おうが、自分だけが終焉の良さを実感していればいいのだ。
 ――そうして、同じように愛せれば、きっと、報われるはずだ。

 ゆっくりと目を閉じて、終焉の寝息に合わせるようにノーチェもゆっくりと呼吸を繰り返す。やがて薄れ始める意識に、何故だか途端に不安が押し寄せてしまった。

 ――この人と一緒にいられるのはあとどれくらいなんだろう。