ほうほうと沸き立ち始める湯気を横目に、ノーチェは浴室を後にする。その足で客間へと向かうために廊下に敷かれた赤黒い絨毯の上を歩き、昼間よりも重い足取りを引き摺る。頬につけられた傷はそのままに、体に染み付いた鉄臭い香りに眉間にシワを寄せた。
何故だか糸が切れた人形のように眠りに落ちた終焉は、いつまでも薄暗い終焉の部屋へと運ぶに至った。普段と同じように丁寧に整頓された寝具の上に寝かすとき、終焉が目を覚ましてしまうかと考えもしたが、その様子は一向に見当たらなかった。ピクリとも動かない瞼にノーチェは安堵したが――ほんの少し、もどかしいような気持ちに陥る。
お世辞にも顔色はいいとは言えない。血塗れで鉄臭い香りばかりが充満するような場所で、たった一人を寝かしつけるなど気が引けるというのが本音だ。知っている人間は数少ないだろうが、男の体は見た目にそぐわないほど、軽いというものが更に得体の知れない不安を掻き立ててくる。
――まるで、臓器でも抜かれてしまっているような感覚だ。
確証もなければ、ただの例え話でしかないのだが、ノーチェは眠り続ける終焉を残したまま足早に浴室へと向かった。いつ目が覚めてもいいように、準備をしておくのは悪いことではないだろう。――そう思ってのことだった。
ノーチェが浴室で風呂の準備をしている間、終焉が目を覚ましたという報告はなかった。相変わらず一定の呼吸を繰り返したまま、寝息を立てているのだろう。
彼は溜め息を小さく吐きながら、そうっと客間を覗いた。中には赤いソファーに腰掛けてゆっくりと寛ぐリーリエの姿がある。赤く彩られた爪先を眺めては鼻歌なんて紡いでいて、やたらと上機嫌だ。その姿に違和感を覚えていて、首を傾げていると、その正体に漸く気がつく。
普段持ち歩いていると言っても過言ではない酒瓶が、傍にはないのだ。
何故だろう。一度だけ問い掛けようかと思ったものの、振り向いて目があったことにノーチェは不意を突かれる。「お疲れ様」そう言って微笑む女の顔は、やはり母親のような柔らかさがあった。以前話していた「双子の娘」の存在はあったのだと思わせてくる。
――それに一度気を取られたあと、「ん」と呟いて彼は部屋の中へと足を踏み入れる。柔らかい生地が密集したような弾力を思わせてくる絨毯を足の裏で掠め、徐にソファーの前で立ち止まる。月が浮かぶ夜の瞳で黙って見つめていれば、座ったらいいじゃないの、とリーリエが笑う。
まるで何があったのかも全く知らない様子で、場違いなほどカラカラと笑うものだから、ノーチェは小さく眉を顰めた。
「……あの、蝶は」
訊きたいことはいくつもあるのだが、彼自身、自分を見失うほどの馬鹿ではない。いくら問い掛けたところで欲しい回答がもらえる筈がないと、頭の隅で理解しているのだ。
だからこそ彼は小さく、且つ確実に答えをもらえるであろう質問を口にした。あの黒い蝶はアンタがやったのか――と。
それにリーリエはにこりと笑みを浮かべて肯定を示した。
「もっと別のことを訊いてくるものだと思ってたわ」
まるで確信を得ているかのような言葉に、ノーチェは唇を尖らせた。考えを読まれていることよりも、訊かれても答えないと言いたげな口調が酷く気に食わなかったのだ。
「どうせ訊いても答えないだろ」そう試しに言えば、リーリエは肩を震わせながらくつくつと笑い、「答えないわよ」とノーチェに告げる。赤い紅が塗られた唇が弧を描く様を見ていると、張り詰めていたらしい緊張の糸が切れたのか、途端に体が重くなったような気がして、彼の足元がよろめく。
何も疲労を覚えているのは終焉だけではないようで、リーリエの顔を見ていたら素知らぬ安堵感を覚えてしまった。
咄嗟に足に力を込めて体勢を立て直すと、女が隣のソファーを手のひらでぽんぽんと叩き、座れと暗示してきている。それにノーチェは大人しく従ってソファーへ体を沈める。反発しながらも受け入れる生地が更にノーチェの気持ちを緩めた。堪らずほう、と吐息を吐くと、リーリエが申し訳なさそうにノーチェを見つめて――
「ごめんね」
――と唐突に謝罪を口にした。
終焉ほど普段から話をしているわけではないのだが、リーリエがノーチェに対して謝らなければいけないことなど、ない筈なのだ。それなのに妙に泣きそうな色を見せて謝罪などしてくるものだから、ノーチェは驚いたように目を丸くする。黒い強膜が夜空のような瞳を目一杯瞬かせて、「何が」と彼は問い掛けた。
特別な意図はない。気になっただけのことで、大したことでもないであろうこの疑問には答えてもらえるような気がしたのだ。
何が、と問われたリーリエは一度だけ瞬きをすると、意を決したようにノーチェを真っ直ぐと見つめる。その視線が普段のものとは違って鋭さを兼ね備えているように見えて、彼は息を呑んだ。何か違った答えをくれるのだと分かったのだ。
「あんたの欲しい回答はあげられないのよ」
酷く困ったように眉尻を下げてリーリエは呟いた。女はノーチェの欲しい回答を与えられないのだという。
――例えば何故リーリエがノーチェのことを知ったような口振りであるのかということ。彼自身が違和感を覚えるような事に苛まれるのかということ。人が殺せない理由から、何故こんな辺境な地へ赴いてしまったことなど、沢山のことを彼には教えることができないのだ。
そんな告白に、ノーチェは確かに驚いた。何せ彼は自分が人を殺せなくなったことをリーリエには話した試しがない。仮に終焉が話そうにも、終焉に打ち明けたのが今日の昼頃なのだから、不可能な話である。それなのに知っていたとすれば――これもまた、ノーチェには打ち明けられない事情があるのだろう。
その範囲が知りたくて、試しに彼は〝教会〟が訪ねて来る前の一連の行動を話した。
ノーチェは終焉の死にやたらと恐怖心を抱いてしまっていること、我が儘で終焉に一度死を望んでしまったことを話して、静かに唇を閉ざしてしまう。閉じたいわけではないのに、言葉が喉の奥で引っ掛かるような感覚が頭を支配して、まともな考えを失ってしまうのだ。何を言おうとしたのか、何を伝えたら相手に伝わるのかが、頭から抜け落ちてしまう。
それでも彼は口を開いて呟くように女に話し掛ける。
「俺が、あの人が死ぬのを見ると怖く思えるのは、答えられないことで合ってる……?」
小さく訊けば、リーリエは苦虫を噛み潰したような顔付きでゆっくりと首を縦に振る。その肯定の意は、彼に直接的な原因を打ち明けられないことを確かに示していた。
そうか、と堪らず独りごちれば、「何でそんな悲しそうな顔すんのよ」とリーリエは笑い始める。むくれたノーチェの頬に指を向けて、つん、と頬を突いた。特別むくれいているつもりのないノーチェは、その手を払うことはなかったが、「そんな顔してない」と一言。自覚していないのね、なんて言われて、自分でも顔に触れば、頬についた傷口に触れてしまう。
チクリと走る痛みに頭が刺激されて、彼は再びリーリエへ顔を向ける。
「……俺……あの人が起き上がったあと……何か話をしたような気がするんだけど、何か…………?」
確信に得られない回答は得られないのなら、その他はどうだろうか。
そう思って、彼は昼に抱いた違和感へと手を伸ばす。それはあまりにも空虚で、掴もうとしても掴めないのと同じような感覚だ。ちらちらと覗く記憶の大半は黒い絵の具に塗り潰されてしまったかのように、断片程度しか思い出せない。確かに終焉に何かを訊こうとした筈なのだが――その結末がまるで思い出せなくて、彼は手元のソファーへと視線を落とした。
特別頭が痛むわけではない。ただ、何かを無くしたような気がして、酷く悲しく思えてくるのだ。
そんなノーチェに思うところがあるのか、リーリエは彼の頭を軽く撫でたあと、「思い出さない方がいいこともあるのよ」と小さく語り掛けた。
曰く無理をして思い出そうとすればするほど、脳へのダメージを与えようとする力が働くことがあるというのだ。一種の防衛本能だという話だが、魔法を駆使した場合にもそれが起こるという。
魔法にもいくつか種類があり、相手を呪う効果を持つものを掛けられてしまえば、何かを切っ掛けに頭が割れそうになるほどの頭痛を引き起こすことがあるのだ。
現状ノーチェにその気配はない上に、忘れていた何かを思い出そうとするすればするほど痛むどころか、寂しさが増していくだけ。それに原因があるのかどうかを訊こうと思ったが、数回頭が痛みを覚えたことを思い出して、何気なくこめかみに手を添える。
痛みを感じたときに頭をかすめたのが何だったのかを思い出そうとして――不意に俯いていた顔を持ち上げられた。
赤一色に彩られた視界が一変して、金の髪や赤い瞳が視界に映る。驚いて彼は「何、」と口を洩らすとリーリエが困ったように笑った。
「ね、少年。あんた、きっと何か思い出そうとしたのね。記憶が抜き取られてるわ」
「――……な、え、何で……?」
そんなもの見ただけで分かるのかと追求したくなる気持ちが沸々と湧いたが、それよりも疑問が勝ってしまった。頬に優しく添えられた手のひらが自分の肌よりも多少温かくて、僅かに熱を覚える。
何が原因で抜き取られたのか、女は教えることはなかった。ただゆっくりとノーチェから手を離して、憶測でものを言うように「多分」と言う。「きっと、そのときに酷い頭痛に苛まれたんじゃないかしら」と。
そんなノーチェが見ていられなくて、何らかの方法で忘れるように仕向けたのかもしれないと。
その回答に、ノーチェは一度だけ瞬きをしたあと、「そっか」と独り言のように口を洩らす。
自分は肝心なことを一切知る権利がないのだと。結局何度も胸を掠める違和感を解消することもできず、生きていくしかできないのだと思えば、多少の落胆が気分を落ち込ませた。
――しかし、相手は確実に終焉であることは確かだ。目を覚ましたときに初めに見たものを原因だと思うのなら、ノーチェの記憶をどうこうしたのは男の所為だと確実に言えてしまう。特別責め立てるつもりはないのだが、変なことに使うつもりがないのなら言い立てることもないだろう。
何せ彼は終焉の射抜くような視線が少し、威圧的で苦手だからだ。
ふう、と彼は肩の荷を下ろすように吐息をひとつ。深く考え込むことが面倒に思えるほど、疲労感を覚えていることに気が付いて、話を深めることをやめる。何にせよ、彼は今、奴隷でしかないのだ。理由を知ったところでどうこうできる話ではない。結局はこの首にある首輪をどうにかしなければ、始まりにも立てないのだ。
何気なく首輪に手を置いて、小さくなった鎖に手を添える。カラカラと音を立てて存在を主張するそれに嫌気が差して、思わず溜め息を吐くと、隣のリーリエが柔く微笑む。「それ、生きるのに邪魔そうね」なんて言うものだから、確かに、だなんて言って、天井を仰ぎ見た。
天井には造りのいいシャンデリアのような形の照明がぶら下がっていて、身分の違いをまざまざと見せつけられるような印象を受ける。その中で彼は「アンタは俺がこのまま奴隷でいると思う……?」だなんて訊いてみれば、ノーチェの頭を揺さぶるような勢いでリーリエは言った。
「そんなことある筈ないじゃない」
はっきりと言われた言葉。思わず女の方へ顔を向ければ、何やら自信に満ち溢れたような表情で、ノーチェを見つめる赤い瞳と視線が交ざり合う。何故そんなに断言ができるのかと問い掛けたくなったが、彼は開きかけた口を閉ざして顔を俯かせる。
特別嫌な気はしない。この女は確かにノーチェが奴隷でなくなることを分かったような口で言うものだから、本当にそうなるのではないか、という気持ちがノーチェにも宿る。思えば終焉の他にノーチェを奴隷として見ないのはリーリエであるような気がして、知らず知らずのうちに拳を握っていた。
この言葉は信用してもいいのかもしれない。――そう思ったと同時に、妙な気恥ずかしさが湧いて出てきたようで、俯いた顔のまま視線が泳ぐ。
まともな人間に戻れる。それが今では慣れないことであると分かって、彼は咄嗟に話題を変えた。
「な、何か俺、あの人が『化け物』って言われんの、すげー嫌なんだけど……何でだと思う……」
咄嗟に口走った話題が終焉であることにノーチェ自身が疑問を抱き、言葉の末尾は小さくなった。
妙な質問を投げてしまったものだと彼は思う。咄嗟に出した話題が終焉であることを、リーリエも面白く思ったようで、漸く見慣れたような大きな笑いを上げて、「なぁにそれ」と目尻を拭った。それに張り詰めていた空気が緩くなったように思えて、ノーチェはほっと息を吐く――。
「そりゃ少年がエンディアのこと、好きだからじゃないの~?」
――直後、揶揄うように紡がれた言葉に、ノーチェの頭が思考を放棄した。