魔女との対話

 好き、とは一体どのような感覚だったのか、彼には思い出せなかった。ただ相反する「嫌い」の感覚は分かるような気がして、ノーチェは小さく首を傾げてみる。リーリエが酒瓶を普段から常備しているような気持ちだったか。それとも、食事に対する「美味しい」という感覚と同じようなものだっただろうか。
 ――いずれにせよ、ノーチェは終焉に対する好意を認める気はしなくて、「そんなこと」と思わず口走る。

「何で否定すんのよ」

 彼の否定にリーリエは不貞腐れたような表情を浮かべ始めた。強ち間違っていないであろう答えを述べたつもりなのに、真っ向から否定されることに、少なくとも機嫌を損ねてしまったようだ。
 堪らずノーチェは両手を振って「その、なんて言うか、」と口ごもっては懸命に言葉を探す。――平たく言えば彼は終焉に対するものをたったの一言で収めるつもりはないのだ。

 終焉はノーチェに対して真っ直ぐに「愛している」と口にするほど、彼を想っている節がある。そのお陰も相まってか、終焉のノーチェに対する世話は過保護の域へ到達しているのだ。食事から始まり、衣服にも拘れば、奴隷には見合わないほどの立派なもらっている。最近はいくらか手伝いを始めたものの、男からもらうものに比べれば、到底返し切れているとは思えないのだ。
 その状態で彼は終焉を好いていると断言するのはお門違いだと思ってしまう。立場や感情の云々など関係はないとしても、ノーチェの中の何かがそれを良しとはしないのだ。

 与えられているのなら、なるべく見合うようなものを返したいだけ。
 何とか言葉になりそうなものを見つけてそれをリーリエへと告げれば、女は酷く驚いたように目を見開いて、軽く開いた口で言葉を紡いだ。

「……あんた、あいつに対して同じような愛情を返したいの……?」
「………………愛……?」

 もらっているものに対する見返りを例えるなら、それはきっと同じような愛情を返すべきなのだろう。
 ノーチェはそれを女に伝えたが、いざ言葉にされてしまうと目の前がぐらりと揺れるような感覚を覚える。愛情、愛――それが一体どんな意味を孕んでいるのか、ノーチェ自身も分からなかったが、何気なく胸元で服を握り締めてしまう。
 どういうわけか、紡がれた言葉がやたらと懐かしく、記憶とは違って知らなかった何かを漸く知れたような気持ちになったのだ。もっと早くに知りたかったような、今知れて良かったような――不思議な感覚だ。

 それに彼は放心していると、不意に背後から廊下の軋む音が聞こえた。それも小さく、微かで、音に気が付いたリーリエも驚くように「あら」と呟く。彼は胸元を握り締めながら振り返って見れば――眠っていた筈の終焉が、ノーチェを見つめていた。
 やはり顔色はお世辞にもいいとは言えなかった。寧ろその逆――眠っているときよりも遥かに青白くなった顔で、酷く泣き出しそうな表情を浮かべている。頬や額には汗が滲んでいて、肩で息をしているのが見て取れた。目が閉じる前に青く染まっていた瞳は――安堵感を覚えるほど、赤い色へと変わっていた。
 何かを紡ごうと唇を開くが、息が溢れるだけの動作を終焉は繰り返す。それにノーチェは思うところがあって、ソファーから立ち上がって終焉の近くへと歩いて行った。
 一歩、また一歩と距離が縮まる――。
 あと少しで距離もなくなるほどの近さになると同時に、終焉が一歩、ノーチェから離れた。

「…………え、」

 無意識だろうか、それとも意図的だろうか。
 何かを言おうとしていた終焉の言葉を拾ってやろうと近付いたにも拘らず、距離が開いたことに彼は少なくとも驚きを覚える。思わず見ていた足元から、また終焉の顔へと視線を移せば、男が小さく小さく「俺は、何てことを、」と呟いたのが聞こえた。
 終焉の視線は相変わらずノーチェの顔へと向けられている。それに、彼は頬の傷のことを言われているのだと知って、そうっと自分の傷を手で隠した。一人称が変わっていることに気が付いて、何気なく背後へと顔を向ければ、リーリエが険しい表情を浮かべている。先程の陽気な顔つきではないことが十分に伝わって、ノーチェは唇をきゅうっと結んだ。
 終焉は十分な休養を取れていないのだ。昼も終わり、夕暮れに差し込もうとする曖昧な時間帯。普段ならば男が忙しなく動き、その傍でノーチェは淡々と手伝いを所望する時間だ。眠っていた筈の終焉が目を覚ましたのも、日頃の習慣によるものだろう。それでも顔色が悪いのは、単純に疲労が溜まっていることと、眠る前の記憶が残っているからなのかもしれない――。

 男はノーチェを愛している。それは、たとえ傷をつけたのが自分であっても許せないほど。

 正確に言えばノーチェの頬の傷をつけたのは終焉ではないが、傷口を抉ったのは他でもない男自身だ。そのことを覚えているとすれば、終焉がノーチェから距離を置こうとする意思があるのは当然だとも言えるだろう。
 ――しかし、今更終焉に距離を置かれてしまうと、ノーチェ自身の感覚が狂ってしまう。その不快感と言えば、大人しくなってしまった筈のノーチェの感情を、酷く揺さぶってくるものだった。
 終焉は小綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めてしまって、今にも泣き出しそうに顔を俯かせた。人の顔色を窺ってきたノーチェには、現状終焉の感情を把握することはできず、項垂れるように垂れた手を握り締めてしまう。

「――ムカつくな」

 思わず呟いてしまった言葉がリーリエにも聞こえてしまったようで、背後からは「え?」と驚くような声が聞こえた。終焉も同様に聞こえてしまったようで、落ちていた顔を徐に上げて彼の顔色を窺うように瞳を覗かせる。おずおずといった様子で赤と金の瞳がちらりとノーチェの顔色を窺った――。

 ――ぱちん

 ――控えめながらも終焉の頬を打ち鳴らすような音が鳴り、リーリエが数回瞬きを繰り返す。見れば驚いているのは女だけでなく、終焉も珍しく目を丸くしていた。
 なんてことはない。ただ、ノーチェが終焉の頬を両の手で包んだ際に、ほんの少し力んだ所為で叩いたような音が鳴っただけ。リーリエにやられたように、彼もまた無理矢理終焉の顔を上げさせて、しっかりと正面からその顔を見た。

「その変な顔、何かムカつく」

 頬をこねくり回し、歪だった顔の形を変えていると、終焉は確かに間抜けな声を洩らしていた。う、だか、むぅ、だか上手くは聞き取れない。だが、抵抗する意思はなく、ノーチェのされるがままになっているのは確かだ。
 彼の背後からは小さく笑うような声が聞こえているが、そんなことを気にしている余裕は二人にはない。一方は遠くから機械的な音を聞いて、顔をいじる手を疎かに。もう一方は何やら困ったような表情をし始めて、女の笑う声が絶えない。
 そんな中でノーチェは終焉の頬をつねって、「風呂に入ってきて」と終焉に告げる。

「俺、血生臭いの、好きじゃないの。早く入ってきて」

 そんで手当てして。
 そう言うと、終焉は呆けた顔のまま「……はい」と言って、ノーチェの指示に従った。