――知っても得をしないような疑問を胸にした直後、ノーチェはゆっくりと体を起こした。たとえあるべき姿から離れていたとしても、彼は〝ニュクスの遣い〟であるのだと体が再認識する。
――というよりは、奴隷になって以来やけに人の気配に敏感になったような気がするのだ。
終焉の気配は追いにくく、まるで霧の中で手探りで人を探すような苦労を覚えることもあるが、ふとした瞬間にそれが浮き彫りになることがあるのだ。例えるなら安心したとき、だろうか――。屋敷の近くで鳴る物音と小さく揺れる気配に、ノーチェは漸くソファーから立ち上がった。
念のためだ。奴隷である以上、訪れる事柄に立ち向かうなんてことをする気は毛頭ないのだが、つい先日終焉は殺されたばかりだ。あのときと同じように〝商人〟が入り込んでしまっては留守番すらできない能無しになってしまう。匿われている以上、それだけは避けておくのが最善だろう。
がさがさと物音が鳴るのを耳にしながらノーチェは小さく息を吐く。終焉の気配は独特だった。それは、一言で表すには難しく、説明しようがない。ただ敢えて言うならば、何もなければ何も見えない空間に獣がこちらを見ているようなものだった。
「…………む」
ノーチェは徐に扉を開いてみると、目の前には袋をいくつか抱えた終焉が無表情のまま――しかしどこか目を見開いているように見える――立っていた。彼はそれを僅かに見上げながら「……おかえり」と呟いてみると、終焉は一度口ごもるように唇を結び直したかと思うと、「……ん」と返事をする。
むず痒い、照れ臭い――そんな気持ちが伝わりそうな小さな行動にノーチェは瞬きを落とすだけ落として、何気なく両手を広げる。荷物くらいは持つ、という然り気無い意思表示のつもりだ。先日言った手伝いを少しずつでもやろうと思いきってのことだ。
男は一度眉を顰めると悩ましげにゆっくりと唇をへの字に曲げて、徐に携えている荷物を彼の前に差し出す。悩んで、悩んで、悩んだ結果なのだろう――ノーチェは満足げにそれを受け取ると、終焉を屋敷の中へと迎え入れる。食材がごろごろと敷き詰まった袋を見ながら、今日は何を作るつもりなのだろうなんて思う。
終焉はコートを脱いで自室に向かい、ノーチェは食材を抱えてキッチンへと歩く。別れ際に「……今日は何か食うの」と訊けば、「冷蔵庫に」という返答だけが返ってきた。
キッチンへ足を踏み入れれば相変わらず綺麗な食器や棚が胸を張るように聳え立つ。その中をノーチェは歩き、食材を冷蔵庫へと押し入れながら目当てのそれを探る。
「…………何食うんだろ……」
食材はノーチェの手にかかれば安い玩具のように簡単に壊れてしまう。だからこそ細心の注意を払いながら冷蔵庫を眺めると、楕円形のころころとした小柄な洋菓子を見付けた。丁寧に皿に盛り付けられてラップまでされているカラフルな洋菓子の名前は何だったか――考える間もなく彼はそれを手に取る。
いつ作り上げたのかも分からない洋菓子を取り出して、昼頃に食べるものではないと思いながらも紅茶やカップなどのティーセットをトレイの上へ載せる。茶葉の知識など彼にはある筈もなく、ただ適当に手に取ったものを終焉に差し出すのだが、文句のひとつも言われたことはない。教わったことも程々に、適当に湯を沸かしてポットへ注いだとしても、男は怒りを露わにすることはなかった。
食材が入っていた袋を片付けて代わりにトレーを持って歩くと、終焉の長い髪が慌ただしく靡く。気になって見れば、広間にも似た客間に干してある洗濯物を畳もうとしているようだ。
いつ干したのかは疑問になったが、いやに慌ただしく動くものだから口を挟めないノーチェは、テーブルにティーセットを置いてソファーへ座る。――終焉は認めていないが――主人よりも早く手をつけるという愚行を犯す気はないノーチェは、終焉の背中をぼんやりと眺めていると、「食べてもいいぞ」と男は言った。
「……アンタより先に食べる気はない……」
息を吐くようにそう呟けば、何を思ったのか終焉は「そうか」と口を溢しながら丁寧に折り畳んだそれを両手に抱えた。タオルの類いは風呂場へ、ノーチェが着たことのあるものは彼の部屋へ、終焉のものと思われるものは終焉の部屋へ。
走るように歩く男の姿は今までにないほど新鮮で、思わず目で追っていたノーチェは何気なく窓の方へと視線を投げる。気が付けば窓ガラスにはぽつぽつと水がついていて、彼はリーリエが訪ねてきたことを思い出して「あ」と言った。
「そう言えばあの人来た」
ぱたぱたと廊下を歩く終焉に言葉を投げれば、男はピタリと足を止めて「あの人?」と言う。
「ああ、えっと……魔女……」
「……リーリエか」
妙に名前を呼びたがらないノーチェの言葉を聞いて、今度こそ終焉はばつが悪そうに目線を足元に落とす。「何か用だと?」という問いにノーチェが「酷い天気になるって」と言えば、再び「そうか」と言葉を紡ぐ。
やはりそうか。そう言って落胆するように肩を落とすと、諦めがついたかのようにノーチェの元へと歩み寄る。そのまま用意されたティーセットを目の前に、終焉は椅子に座ってゆっくりと足を組んだ。
「――……」
目の前にすれば尚更伝わる威圧感のようなものに彼はぐっと息を飲む。
体に染み付いてしまったかのような癖のある行動が終焉の存在を一際引き立たせる。頬杖を突いて射抜くように投げられる鋭い視線は真っ直ぐ前だけを見据えて、ぱちりと交わる視線に思わずノーチェは身を引きかけた。
似合う男の行動に体が縮こまる感覚を覚えながら徐に視線をテーブルへと落とすと、終焉がティーポットを手にカップへとそれを注ぐ。相変わらずの赤茶色の液体を見て、僅かに香る芳ばしいそれにほう、とノーチェは呼吸を整えると、終焉は目の前でぽんぽんと手際よく砂糖の類いを入れるのだ。
酷く甘ったるい香りと見た目のそれに「本当に甘いものが好きなのだ」と再認識をすると、彼は淹れられた紅茶を受け取り小さく啜る。仄かに苦く、然れどスッキリとした味わいが喉を通る。やっぱり美味しい――なんて口から溢れそうになって思わず言葉を呑み込むと、終焉が洋菓子を手に取る。
「……それ」
何だっけ、なんて言うと、終焉は「ああ、」と洋菓子を目の前にちらつかせる。
「マカロンだな」
「……マカロン」
甘いものを頬張るように一口で口の中に放り込んだそれを男は機嫌良く噛み締める。甘い香りまでもが口一杯に広がっているのか、ほんの少し上機嫌になったように見えてしまって、じっと終焉を見つめていると、男が「どうした」とノーチェに問う。
「ピエが難しかったんだ」理由もなく洋菓子について語り、暗に「食え」と言われているようなノーチェはそっとそれに手を伸ばす。黄色や桃、チョコレートのように濃い茶色や真っ白なそれをひとつ手に取って、一口齧る。「……甘い」なんて言えば、男は満足げに「そうだろう」と目を細めた。
――あ、今笑った。
抑揚のない声色も、無表情な顔も相変わらずであったが、柔らかく弧を描いた目元を眺めて彼はマカロンを飲み込む。甘く軽やかな食感はクッキーよりも柔らかく、とろけるような甘味が舌の上を転がる。やはりいくつも食べられるという気持ちには至れないのだが、軽い食感が普段よりも食をそそるように思えた。
終焉は変わらずマカロンを口の中に詰め込んではミルクティーを飲み――、溜め息を吐く。その行動に動きを止めたノーチェは一度瞬きを落とすと、疑問をぶつけるべきか否かを悩む。
何かに困るような様子は見ているノーチェからしても酷く気になるもので、咄嗟に「……どうしたの」と問い掛けたのだ。
しかし、終焉は目を閉じてたった一言――
「……いいや、何でもない」
――と呟くだけ。
何でもないならそんな行動は取らない筈だと思ったが、彼はそれ以上の口を挟むことはなく「ふぅん」とだけ呟いて紅茶を飲む。苦い、苦い独特な味わいが甘味を消し去って味を変えるには十分すぎるほどだった。
ノーチェと終焉はあくまで奴隷と主人のような関係だ。奴隷に主人のプライベートな事情に首を突っ込むなんていう出過ぎた真似など許される筈もないのだ。
――勿論終焉は主人という肩書きを認める筈もないだろう。だが、彼の中の先入観はなくなることなどないだろう。それこそ「奴隷」という立場を抜け出さない限り。
「…………ん」
――会話も弾まない小さな御茶会に耐えきれず、ノーチェは何気なく窓の方へと目を向けると、雨粒が大きくなり窓を濡らしているのがよく見えた。気が付けば雨音もそれなりに大きくなっていて、屋根の下に居るというのに気が付かないのが不思議だと思うほど。
それほどまでに終焉との時間が面白いと思っているのだろうか――。
なんて思いながら終焉へ視線を戻すと、男が僅かに不安そうに窓の外を眺めているのだった。