――何もなかった。
初めは何も、持っていなかったのだ。
ある日、男はふと目を覚ました。
今まで何をしていたのかは覚えていない。目を覚ました先にある大木が、忌ま忌ましい光を遮ってくれていたことに感謝の念を覚えたくらいだ。
瞬きを数回繰り返して、男はゆっくりと体を起こす。初夏に入ろうとする眩しい季節には、青々とした草花が生い茂っていた。
体を起こして、何気なく自分の手元を眺める。親近感の湧く黒い手袋がはめられた自分の手のひらだ。何故だか視界が歪んでいるような気がして、試しに片目を閉じると、男は自身の右目の視力が極端に低下していることに気がつく。
何故だろう――試しに目元を擦ると、ざらりとした妙な感触が手袋を伝って肌に当たった。
片目を縦に切り付けたような傷が刻まれていることに、男は気が付いた。
確証は得られないが、恐らくこの傷こそが視力を低下させた原因だろう。
男は手を下ろし、大木に背を預けてぼんやりと空を見上げた。憎たらしいほど清々しく、青く染まる空に、どこか懐かしささえも感じてしまう。
目的などないまま目覚めてしまった男は、ただぼんやりと雲の動きを見つめているのだった。
時折風が吹いて、黒い髪がなびく。――その度に、どうしてこんなに伸びているのかが気になった。
何も覚えていないが、自分が男である自覚はしている。好きなものや、嫌いなものは特に記憶にない。強いて言うのなら、大地を照らす眩い太陽が――光がとても苦手だということだろうか。
生物学上の男は、基本的には髪を伸ばすことなど滅多にない筈だ。
しかし、男の髪は長く、恐らく胸辺りを越してしまっている程度の長さにまで伸びている。束ねていないと鬱陶しい筈だが、どこを確認しても髪紐やヘアゴムの類は所持していなかった。
衣服は――ずっと昔から愛用している一色だ。その記憶はある。
何の気無しに袖を撫でてみるが、ほつれた様子も劣化した形跡も全くない。どれだけ着ようが、どれだけ洗おうが、いつまで経っても新品同様に保てる男専用の服だ。
男がこの服を愛用している理由は、光を遮られるから、という一点のみ。
男にとって太陽は天敵で、忌ま忌ましい存在で、体の自由を奪う凶器以外の何ものでもない。
――そんな太陽から、男は自分を守るために長く、黒いコートを愛用しているのだ。
大木は木陰を作り、男はその場でただ空を見つめる。日が高く昇る以上、男ができることといえば待つだけ。
雲の流れは遅く、質量を増しているように見えた。近ければ近いほど濃く、遠ければ遠いほど薄い。ものの見え方が異なるという点は、いつまで経っても新鮮な気持ちにさせてくれていた。
何かをしたいという気持ちは一切起こらない。ただ体が重く、酷い睡魔が男の体を支配しようとしていることは、男自身も分かっていた。
体を起こすのに何ら問題はなかったが、それ以上のことをする力は振り絞れないのだ。
気怠いほどの脱力感と、気が遠くなるほどの睡魔は、恐らく魔力の喪失から来るものだろう。
溜め息を吐く気力もなく、男は視線を空から地面へと移す。眠ってしまおうか、それとも起きていようか――答えのない葛藤が、男の中で巡り続けていた。
――そもそも何故こんなにも魔力を失っているのかを、男は知らなかった。
生まれ持った力を失う度に体の奥底から何かが無くなる感覚がある。魔力は体中を巡り巡っていて、火や水を扱うときに魔力に自らの意志を乗せれば、自由に扱えるようになる。
魔力の扱い方は人それぞれ。何かを具現化させるのに対しても使える代物で、日常的にも使える代物でもある。
火で何かを燃やしたり、水を浮かべてみたり。風を吹かして意のままに操る。
――そういったことに使えるのが、体内に宿る魔力であり、失う感覚は力が抜けていくことにとてもよく似ている。
気が遠くなりそうになるほどの脱力感。意識を奪おうとするほどの眠気。
回復する為には、心身共に休めることができる睡眠が有効的だ。
それ故に男は酷い倦怠感に襲われていたのだ。
肝心の理由は――分からない。考えれば考えるほど、何故自分がこの場所で「目覚めた」のかを、男は理解していない。
記憶の糸を辿ろうとするものの、途中で途切れてしまったかのように何も思い出せなくなってしまうのだ。
――不思議な感覚だった。
男はぼんやりとしたまま瞬きをゆっくりと繰り返していると、次第に眠気が襲ってくる。初めは見開いていた筈の赤と金の瞳も、少しずつ瞼に覆われていく。繰り返す瞬きの数も、感覚も間延びしてきていて――とてもではないが起きてはいられなくなる。
うつらうつらと船を漕いで、体の全てを大木の幹へと委ねる。
眩しさも太陽も晴天も憎たらしいが、温もりのある空間で眠りに就くのは嫌いではなかった。
男はゆったりとした呼吸を繰り返して眠る準備を整える。何がともあれ、魔力が枯渇しているのでは話にならない。体を動かすのがままならなければ、まともな考えもできないのだから、最善の選択を選んだのだ。
風に揺れる草木の音色を聞き入れていると、少しずつ意識は闇の中へと落ちる。人もいなければ、動物達がやたらといるわけでもない。穏やかな空気が頬を撫でてくるのが心地よくて――寝息を立てかけた。
「――…………」
ふと、何かが気になって男は閉じていた目を開ける。
草木が風に揺れるのに混じって、足音のようなものが聞こえたのだ。くしゃりと微かな音ではあったが、五感が優れている男はそれを聞き入れてしまった。
眠りを妨げられた、という意識があるわけではない。ただ、何かの気配がある以上、男はゆっくりと眠りに落ちることができないのだ。
足音は恐る恐るといった様子で少しずつ男の元へと近付いてくる。草を踏み締め、男の気分を害さないようにと徹底された静けさに、男は僅かに顔を動かした。
近隣に住む人間が男に近付いて、何らかの言葉を残してくるかもしれない。それが苦情なのか、叱咤なのか――皆目見当は付かなかった。
ちらりと目を向けた先には青々と茂る草花が一面に広がっていた。整備された道のようなものは男の視界には一切視界に入らない。
その道を、気を遣うような足取りで近付いてくれるのだから、恐らく音の主は男の存在に気が付いているのだ。
「――あっ」
足音の主は男がこちらに顔を向けていると知るや否や、ハッとしたような様子で頭を掻いた。どうやら男が寝ていると思い、慎重に歩いていたのにも拘らず、起きていたことに驚いたらしい。
一箇所だけ青いメッシュの目立つ金の髪が小さく揺れた。首まで切られたような短い金髪に青い右目が僅かに煌めく。左目は何かがあったのか――白い眼帯をつけていて、痛々しい見た目が特徴的だった。
「ああ……ええと」
彼はバツが悪そうに言い淀んでいたが、男が何の反応も示さないと知ると、頭を掻いていた手を下ろす。
身なりは――とてもいい。一目で分かるほどの質の良い衣服だ。
その服が汚れるのも気にせずに、彼は膝を突いて男に声を掛ける。よく見ればその手にはひとつ、黒い傘が握られていた。
その傘を開き、彼は言うのだ。
「こんにちは。今日はとてもいい天気だけど、眠るには少し眩しすぎないかなぁ」
よければ家で休んでいかない?
そう言って彼は、男の返答を待った。