――ふと目を覚まして、男はぼんやりと天井を見上げる。見慣れない木目に、見慣れない照明。忌ま忌ましい太陽を感じることはなく、寝覚めはとてもいい。
体をゆっくりと起こしてみれば、気怠さを覚えるほどの脱力感はなかった。どうやら失っていた魔力は全て取り戻したようだ。
ぼんやりと手のひらを見つめ、徐にぐっと握る。試しに手を動かして軽く指を上げると、寝具に落ちている男の影が小さく蠢いた。
男と相性がいいのは影だ。自分自身から落ちる影であったり、他者が作り出している影であったり――物が作り出している影であったりと、様々だ。
要は光がない暗闇と、光があるからこそ生み出される影が男とは非常に相性が良かった。
自分自身の体を媒体に魔力を伝い、影へと伝えば自分に従う従順な僕となる。
もう少し工夫を凝らせば自身より遠い何かに影響を及ぼせていただろうが――男はその方法をすっかり忘れてしまっていた。
ほう、と吐息を吐きながら男は手を下ろす。調子は悪くはない。十分な睡眠を貪っていたお陰か、すっかり気分のいい男はゆっくりと顔を上げた。
部屋の中は酷く薄暗かった。男の事情を知っているのか、窓には厚手の遮光カーテンが施されている。少しの光も通さないように、と暗い色のカーテンだ。
家具は必要最低限の物しか用意されていない。本棚と、机と、随分と質の良い椅子がひとつ。机の上にはテーブルランプがひとつと、執筆用の道具が一色揃っている。床は――部屋の暗さも相まって黒く見えるが、赤黒い絨毯が敷かれていた。
軽く部屋を一望しただけで薄々気付いてしまう造りの良さ。寝具でさえも二メートル近い男が眠れるほどの十分な大きさと、肌触りの良さが男に痛感させてくる。
――この家の家主は随分と良い暮らしをしているようだ。
ぼうっと部屋を見渡したあと、男は寝具の端へと移動した。
寝具の端に腰掛けて、足を下ろして深呼吸をする。
この部屋で意識を失っていた経緯は十分に把握している。「目覚めた」ある日、酷い眠気に曝されてそのまま眠ろうとした矢先に声を掛けられたのだ。柔らかく気分を損ねないように注意された声色だったが、意識的に声を高くしていたのは分かっていた。地の声はもう少し低く――恐らく、男と同じような声色をしている筈だ。
それがこの家の主であり、敢えて男を家に招いたのだろう。
しかし、男には家に入った頃の記憶はない。恐らく家に着いた直後に意識を失って、深い眠りに就いてしまったのだ。
――その頃の記憶は十分に思い出せる。頭や思考に支障はないようで、自分の思考がまともに働くことに男は安堵の息を洩らした。
問題はそれ以前の記憶だ。
――ふう、と息を吐いて、男は足に肘を突く。手を組んで、組んだ手の甲に額を押し付けて、目を閉じる。
暗い部屋には物音のひとつも届かない。それが功を奏していて、男は自分の考えに没頭することができた。
眠ったあとの頭は酷く冴えていて、すっかり気分が晴れたよう。自分に関する情報を必死に掻き集めて、自分がどんな状況にいるのかを整理する。
魔力の存在も、その使い方も十分に理解していた。冴えた頭では、垂れてくる黒い髪が何故伸びているのかの理由も分かった。
赤が交じる黒い髪が綺麗だと言われたこと、もう一度褒められたかったこと。普段褒められ慣れていない男が唯一もらった褒美で、柄にもなくもう一度褒めてほしいと思って伸ばし続けていたのだ。
――だが、その相手が誰だったかはまるで思い出せない。それだけでなく、思い出せる記憶はその「褒められたかったこと」だけで、あとはぽっかりと穴が空いたような感覚ばかりだった。
誰かが笑っていたような、誰かを褒めていたような気はするが、どこの誰だかなど思い出せない。
年齢も、自分の出生も、誕生日も――何もかも。
自分の名前ですらも――
「…………」
――コンコン
――そう、ノックの音が聞こえた。
男は目を開き、ゆっくりと顔を上げる。落ちてきていた黒い髪を払い、ノックされた扉の方へと視線を向けると――扉が開かれた。
きぃ、と微かに軋むような音が鳴る。そのあとに部屋よりもほんのりと明るい廊下が微かに見えて、男が一人「入るよ」と声を掛けながら足を踏み入れる。
靴を履いているのか、くぐもった音が小さく鳴った。造りのいい革靴の音だ。
「や、おはよう。気分はどう?」
随分と馴れ馴れしい口調だと、男は思った。
しかし、家の中で寝かせてもらえた以上、文句のひとつも言えやしない。
男は彼の言葉に頷きで応えて、彼の顔をじっと見つめた。相変わらず片目を白い眼帯で隠していて、見えるのは青く光る澄んだ瞳だ。室内である所為か彼の服はとてもラフなもので、白いシャツと黒いスラックスという簡単な服装だった。
眩い金の髪が、太陽に似てやけに眩しい――。
そう、男が僅かに顔を顰めていると、彼は笑って男を朝食に誘った。
「歩けそうなら後をついてきて」
そう言って扉を開いたまま彼は踵を返す。黒い革靴を履いた足が音を鳴らして廊下を歩くのを見かねてから、男もゆっくりと立ち上がる。試しに部屋の中を歩くが、体に支障はない。寝具に寝かされたときに脱がされたであろう靴が傍にあるのを見つけたが、くぅ、と腹が鳴ったのを聞き逃さなかった。
靴は後で履けばいい。そう思って、男は彼が歩いた後を追う。
部屋を出て廊下に出れば右手側には壁があり、左手側には階段でできた壁がある。ちらりと顔を上げて見れば、二階と思われる場所が見えた。階段の手摺りは黄土色に染まっている。二階以上の階はなく、男はゆっくりと瞬きをした。
豪邸の類だろうか――男は視線を前へと戻し、止まっていた足を前へと動かす。どこもかしこも赤黒い絨毯が敷かれていて、素足で歩く分には困らないほど肌触りはいい。
歩いて、エントランスに着いてから階段の様子を窺った。階段も漏れなく絨毯が敷かれている。全部で十数段。二階に通じるのはその階段だけだった。
男が一階の部屋にいた以上、家主だと思われる彼は二階の部屋を使ったのかもしれない。階段から視線を逸らせば、広い部屋が目に入る。大きな窓があるのか、赤いソファーが明るく見えて酷く煩わしかった。
特に見たいものはない。男は視線を戻すと、ふらりと足を進める。
視線の先には彼はいない。しかし、場所を知らずとも男には彼が向かった先が分かる。
芳ばしい料理の香りに混ざる錆びた鉄の匂い――少なくとも彼は、何かを手にかけたことがあるようだ。
男は歩いた先にある扉に手を掛けてそっと開ける。先程同様の軋むような音はない。その代わりに、食欲をそそる香りが漂ってきて、柄にもなく空腹を訴える腹の音が再度響いた。
相当腹を空かせているのだろう――扉を後に部屋の中へと入ると、彼が忙しなく動いているのが視界に入る。奥にある扉を開けて行ったり来たりを繰り返し、男を見つけると「ごめんね」と笑う。
「今日急に人が来ることが決まっちゃって……あ、ご飯食べていいからね」
言えることを言うだけ言って、彼は扉の向こうへと消えていった。
男が聞く限りでは、何かを開け閉めする音と、食器類を片付ける音が立て続けに鳴り響く。その度に慌てふためくような言葉が聞こえるものだから、男は小さく首を傾げた。
そんなに慌てるようなことなのだろうか。ほんの少し、男の中に疑問が募る。
そのままゆったりとした足取りでテーブルに近付くと、料理が載った皿があることに気が付いた。目玉焼きと、ウインナーが数本。瑞々しいレタスとこんがりと焼かれたパンがある。ガラスコップには白いミルクが注がれていて、男は少しだけ興味が湧いた。
椅子を引いて大人しく席に座る。用意されていた銀色のフォークを手に取って、何気なく目玉焼きの黄身を突く。特別は意味も意図もない。ただ、ほんの少し気になって突いただけだ。
白い膜に覆われた黄身が僅かに揺れる。中身には火が通り切っていない半熟なのか――強く突いてしまえば割れてしまいそうで。男は無言のままフォークをウインナーに向けた。
ウインナーに突き刺せばパキリと心地のいい音が鳴る。フォークが刺さった隙間から肉汁が溢れて、芳醇な香りがどっと押し寄せる。
いただきます――とは口に出さなかったが、少しの間を置いてから男はそれを口許に寄せた。
口に含めばじゅわりと旨味が溢れ出す。咀嚼を繰り返せば、香りが口いっぱいに広がっていく。
――美味い。
無表情のまま舌鼓を打って、男は用意された朝食を食む。用意されたパンも、丁寧に焼かれた目玉焼きも、残さず口へと運んだ。
喉が詰まることはなかったが、用意されたミルクを喉の奥に押し流すとすっきりとした後味が残る。見た目よりも遥かにあっさりとした味わいで、ほんの少し意外だと言いたげに、男はコップを見つめていた。
丁度食べ終わった頃に奥にある扉から彼の姿が見えて、男はそれに視線を向ける。
「食べられた?」
なんて不思議な質問をするものだから、男は一度迷って、頷いた。
「…………悪くなかった」
小さく――小さく紡がれた声だった。
それでも彼には届いたようで、よかった、と溢した言葉と表情には嘘偽りのない笑みが浮かぶ。
一瞬だけ間が空いたような気がしたが――気の所為だろうか。
一瞬の違和感を気に留めないように男は首を横に振って、男は静かに喉元に手を当てる。心なしか、長い間声を出していなかったような違和感があった。喉に何かが詰まっている様子はないが、小さな咳払いをする。
家主はやたらと忙しなく動いている所為か、空になった皿には意識が向かないようだ。
礼も兼ねて男は席を立ち、食器を重ねて持ち上げる。引いた椅子を戻してから扉へと向かい、開けてみれば――冷蔵庫に向かって文句を言う家主がいた。
「いくら何でも急すぎんだろ畜生……こちとら目覚めたての健康男児だぞ」
彼は男の存在に気が付いていないようで、男がシンクに食器を置く頃になって漸く男の存在に気が付いた。
わっと声を上げて、開けていた冷蔵庫を咄嗟に閉める。
「食器なら置いておいてよかったんだよ、兄さん」
なんて言うものだから、男は「そうか」と呟いて――ふと、首を傾げた。
彼は意図せず呟いたであろう言葉が、不思議と耳に残る。兄さん、だなんて親密そうな言葉。男には馴染みのない台詞だが、どうにも彼にはそれなりに馴染みのある言葉のようだ。
違和感もなくすんなりと紡がれたそれに、男はぽつりと言葉を洩らす。
「…………私は貴方と血縁関係にあるのか?」
――そう彼に言えば、彼は一度だけ目を見開いてからぐっと口を噤み、軽く笑う。僕の兄弟に似ていたような気がして、つい――と、彼は言った。
容姿が似ているということは確実にない話だろう。遺伝子が少しでも似ているというのなら、彼と男の髪は黒か金に染まっている筈だ。昼下がりの空のように青い瞳も、男は持ち合わせていない。
男にあるのは赤が交じった黒い髪と、仄暗い赤い瞳。そして――視力が不自然に落ちた金の瞳だ。
彼の言う「似ている」は恐らく雰囲気の話だろう。
試しに男は問い掛けた。私とその兄弟はそんなに似ているのかと。シンクから彼に視線を動かして、何の気無しに彼の顔を見る。
彼はほんの少し寂しげに微笑んで、「そうだね」と言っていた。
――その直後、遠くから扉を叩く音が鳴り響く。耳を澄まさなければ聞き入れられないほどの音で、男が振り返ってみても彼は「どうしたの?」と言うだけ。彼はノックの音だけでは来客に気が付かないようで、告げようか頭を悩ませていると大きな声が遠くから聞こえた。
「ハインツくーん! あっそびーましょ!」
耳障りだと思えるほど高いような女の声。ハインツ、というのは彼の名前に当たるのだろう。エントランスから遠く離れたキッチンにも声は届いたようで、彼は鬱陶しげに表情を歪ませる。来るのが早いなぁ、と呟いて軽く上を眺めるものだから、男もまたちらりと視線を向けた。
彼が見上げた先にあるのは壁掛け時計がひとつ。短針は六の数字を指し示していて、朝が早いことを思い知らされる。
こんな朝から来客など何て傍迷惑な。
――そう思ったものの、口には出さずに再び彼の方へと顔を向ける。
目覚めたばかりで、朝食を済ませたばかり。行くあてもなくこの家へと招かれたが、何をした方がいいのかも分からない。
それでも、来客があるのなら邪魔にならないようにするべきだろう、と男は唇を開く。
「私は出て行った方がいいだろうか」
そう呟けば彼は慌てた様子で首を横に振り、「出ていかなくていいから!」と咄嗟に声を張り上げた。
そして気まずそうに視線を逸らしたあと考え込むような仕草を取ってから、男に提案を持ち掛ける。
「実は兄さんに会いたいっていう人達なんだ。折角だから客間で待っててよ」
赤いソファーがあるところね。
彼がそう言うものだから、男は頷いてから歩き始めたハインツの後を追う。
「兄」と称する言葉には多少の違和感があったが――、男は気にせずに彼の言葉に従うことにしたのだった。