黒の記憶2

 彼女達は男の知人――らしい――であり、口振りから確かに親しい間柄だった筈だ。ハインツに対する態度も、男に対する態度も特に隔てなく、ありのままに接してきていた。この事実は紛れもなく本物で、周りの反応を見るに可笑しいのは自分なのだろう。
 ほんの少し小さな溜め息を男は吐いた。肌を刺すような疎外感と空気が、男の居心地を悪くする。出ていくことを考えたが、行くあてもないと気が付く。
 記憶がないという事実は、あまりにも不便だった。

「――ま、そういうわけだからさ。手っ取り早く自己紹介でもしたらいいよ」

 ぱちん、と両手を打ち鳴らしてハインツは静まり返った空気を壊した。
 音に対して驚いたように肩を震わせ、女達が「吃驚した」と呟く。男も男で驚いたが、顔に出ない感情を彼らが知る術はない。
 ハインツは足を踏み出し、テーブルに手を突いてから男の視線に合わせるように屈む。青く煌めく瞳は空よりも深く、海を彷彿とさせるものだ。
 その目を細めて、彼は口を開く。

「僕の名前はハインツ。ハインツヴァルト・エルメルト。何も気にしないで、ハインツって呼んでくれたら嬉しいな」

 屈託のない笑顔だと男は思った。わざとらしさが残るようなあどけない笑みに、僅かに嬉しそうな声色。どこか懐かしいと思いながら男は頷き、ハインツ、と呟いた。
 そのとき、彼が本当に嬉しそうに笑うものだから、男はそっと目を逸らす。
 眩しいのもは嫌いだと本能が囁いた。髪色も相まってか、彼の笑顔がまるで太陽のようで見ていられない。
 堪らず目を逸らした終焉に何かを思うこともなく、ハインツは嬉しそうな顔をしたままそっと傍を離れる。次は女達の番だと言わんばかりに後ろ手を組み、背筋をしゃんと伸ばすものだから、男は言葉を失った。
 記憶がないことを悲しいと思う様子はない。名前を呼ばれたことに対する嬉しさが滲み出ている。
 変な人間だと男は思った。視線を戻し、女達の顔を見てやれば、金髪の女が赤い瞳を瞬かせる。

「そうね! 私はリーリエ、リーリエ・ヴィレッダよ! 原罪の魔女なんて呼ばれているけれど、あんたは好きに呼ぶといいわ!」

 あんたは大抵私を名前で呼んでいたけれどね。
 女は――リーリエはそう言うと、聞いてもいない「好きなもの」を答えた。どこから出したのかも分からない一升瓶が、彼女の背後からずるりと取り出される。好物はお酒、お酒、それとお酒。あと適度におつまみがあれば最高ね――なんて言って酒瓶をちらつかせているものだから、男は顔を顰める。
 鼻が利く男は、それが仄かに独特な香りを放っているのに気が付いた。鼻の奥を刺すような鋭い香りに、堪らず身を引くように背凭れへと近付いていく。
 暫定だが、記憶をなくす前もこの香りが苦手だったに違いない。――なんて思って、じっとリーリエを見つめた。彼女は男の視線に気が付くと、赤い口紅を塗った唇を尖らせて、「分かったわよぅ」と呟く。ハインツが近付いて、その酒瓶を横から攫った。

「帰るとき返してよね!」
「こんな安物で満足できるんだねえ」

 ふ、と笑いながらハインツは男から多少距離を取る。鼻を突く香りが遠退いて、男の心に余裕が持てた。一升瓶を片手に安物と宣う彼は、どの程度の物ならば高価だと思えるのだろうか。
 こんなお酒よりワインはどう、と呟くと、リーリエは「勿論欲しい」と即答した。どうやら酒の類いならば種類は問わないようだ。
 そんな女の傍らでシスターが小さく笑っている。一見大人しそうではありながらも、顔立ちがリーリエよりも多少幼く見えるのは思い違いでもないのだろう。
 女は胸元に手を添えて、「改めまして、」と言った。

「私はマリア。マリア・グランテ。私のことも、貴方は名前で呼んでいたのよ」

 宜しくね。そう言ってマリアは絶え間なく微笑んでから微かに頭を下げた。どこか見覚えのある水色の頭髪が光を受けて輝く。――それでも金髪よりはマシだと思いながら、男は倣って頭を下げた。
 女達の口振りはやはり自分のことを知った上でのものだ。初めから知ったかぶりをしていればよかったかと思ったが――結局何の意味もないのだと思うと、打ち明けてよかったのかもしれない。
 自分の記憶が欠けていることを打ち明けても、彼らは嫌な顔ひとつせずににこりと笑った。まるで気にも留めていない様子に男はほう、と安堵の息を吐く。居心地が悪くなってしまったら出ていくことを視野に入れていたが、その必要はないようだ。

 一通りの自己紹介が終わって、男も折角だからと自分の名前を名乗ろうとする。ほんのり丸まった背筋を少しだけ伸ばして、「俺は、」と呟く。

「俺…………? 俺、は…………」

 誰だろうか。名乗れるはずの名前を思い出せなくなる。生まれ持っている筈のそれが頭の中からすっかり抜け落ちたように、何度記憶を探ろうとも小さく頭が痛むだけだった。
 そもそも、自分の一人称も本当に「俺」であっているのかも定かではない。
 小さく眉を顰めて口許を歪ませていると、ハインツが不安そうにそうっと男の顔を覗き込んだ。「平気?」なんて心底心配そうに聞いてくるものだから、男は頷きをひとつ。問題ないと言うが――、何も思い出せないのは事実だ。

 自分が知っているのは、体のことと、魔力の有無程度だろうか。

 思わず口を噤み、男は黙り込んでしまう。男の様子が可笑しいことを察した彼女達はこぞって顔を見合わせ、無理をすることはないと言った。同時に、顔を合わせたときに発言した言葉の数々を、男が理解できなかった事実に頭を下げる始末。
 あまりにも居心地が悪く、「頭を上げてくれ」と言えば――ここぞとばかりにリーリエは態度を一変させた。

「これならあんたに下手に出なくても良さそうね~! 毎回怒られちゃうから大変だったのよ~!」

 リーリエは胸に手を当てて胸を張った。いくら騒いでも、いくら酒を飲んでも強気に出られないであろう男に対し、気を張り詰める必要がないのだという。
 女のその態度に以前の自分がどういう生き物だったのか、男の疑問が募る。
 しかし、その態度も家主と思われるハインツの対応に呆気なく流されてしまった。

 別に酒を飲んでいいっていうわけじゃないから。そうハインツが言えば、リーリエはショックを受けたよう。「えー!?」なんて言ってから肩を落とし、隣ではマリアがくすりと笑う。
 たったそれだけで酷く賑やかな光景だと思えた。まるで別の世界のものを目の前で眺めているような感覚に、男は茫然とする。
 楽しそうな会話の輪に入れないことが、何よりも寂しいと思っていたことに気が付くのはそう遠くないことだった。
 けれど、そんな感情も杞憂に終わり、彼らの視線が一気に男へと注がれる。期待と、好奇心。そして興奮が入り交じったような視線に、男はぐっと息を呑んだ。

「この際だから私あんたのこと『顔面美の暴力男』って呼んでいい?」
「こらこら、それじゃ呼びにくいわ。そうね、クロちゃんにしましょう~」
「兄さんの意見も聞かずに話を進めるなよ」

 次々と溢れてくる言葉達に男は瞬きを繰り返す。彼らは特に男を野放しにするわけもなく、まるで以前から連れ添っていた仲間のように男に接した。
 下手な壁も、敬語もあるわけでもない。妙な距離感があるわけでもない。初めから友人だったと言わんばかりのそれに、男は戸惑いを隠せなかったが、「好きにしてくれ」と小さく呟く。

 ――何故だかそれが、妙に嬉しかったのだった。