黒を纏いて影を追う

 目を覚ました終焉は、ゆっくりと体を起こす。酷く重く、違和感のある体はやけに不快で、堪らず顔を顰める。すると、ぱさりと音を立てて何かが布団の上へ落ちたのに気が付いた。何だ、と思いながら終焉はそれに目を向けると――落ちたのは額に置いてあった濡れたタオルだ。
 程好く熱を持ったタオルは、お世辞にも冷たいとは言い難い。
 終焉はそれを軽くもたげて訝しげな目を向けていると、男の傍らで「お目覚め?」と女の声が聞こえてくる。ちらり、と目を向ければ金の髪を持った女――リーリエがにこにこと微笑みながら終焉の様子を窺っている。大した含みもない、ただの笑みだ。
 男はそれが不快――というわけではなく、ただ無表情のままでいる。勿論、申し立てるなら、「何故笑っているんだ」の一言に尽きるが、そんなことを言う気力もないのだ。
 終焉はゆっくりと辺りを見渡して、閉じきったカーテンの向こうを見つめた。あの布の下にある外の景色は眩しく、緑が煌めいているに違いない。嫌気が差すほどの日光にうんざりしながら、涼しさを求めて水を撒くのもお馴染みだ。
 ――なんて光景を想像して、屋敷の中にひとつの気配がないと漸く気が付く。
 それは、誰に何と言われようと大切に匿っているものだ。白い毛髪に夜の瞳――あの特徴的な容姿が酷く気に入っていて、手元に置いていたいとさえ思うほど。夜の名を持つノーチェの一族は特殊なお陰か、終焉が感じている気配は人間とは多少異なっているような気がしていた。
 そんな彼の、存在を感じられない。
 ――そう気が付くと胸の奥が冷えるような気がして、男は気怠げな瞳を徐に、大きく見開いた。

「やだ、寒い。あんたどんだけこの屋敷を所有物にしてるのよ」

 不意に呟かれたリーリエの言葉に、終焉は鋭い眼光を向ける。
 女の言葉は誰が聞いても理解し得ない言葉だ。冷房も点けていない部屋の気温が下がるのは、終焉の所為だと言いたげなもの。――だが、それは自分自身を化け物と宣う終焉だけは理解していて、開かれていた目をゆっくりと小さく細める。

 ここは終焉の言う〝領域〟だ。その領域こそ、まるで誰かの手で意図的に全てを支配されているように、気温さえも思いのままに操れるもの。ひと度足を踏み入れれば、領域の支配者である終焉は気が付くことができる。領域の範囲は屋敷内の全て。各部屋の至るところまで、人の出入りを男は把握しているのだ。
 当の本人が屋敷を領域と定めたのは、あくまで自分が過ごしやすい空間を作るためである。本人が留守にすれば当然その意識も薄まるわけで。そのときはせいぜい人の有無が分かる程度だ。

 領域は終焉の意思によって気温が変わる仕組みだ。それを知るリーリエは夏だとは思えない寒さを感じて、堪らず男に唇を尖らせて文句を言った。その口振りは――昔馴染みに対する口調によく似ている。苦笑交じりの、軽い戯れ程度。
 しかし、終焉はそれに反応を示すことがなかった。体調が悪いのだから当然と言えば当然なのだが、違和感のある様子に女は瞬きを数回繰り返す。
 静寂に包まれたかのような静かな顔。何の情も抱かない、綺麗だが無機質な顔立ち。どこかぼんやりと――しかし、何かを見据えているような瞳は、何故だか懐かしさを感じた。

「……ノーチェは」
「……え?」

 静かに、淡々と呟かれた言葉に、リーリエは拍子抜けした。「何故ここにいる?」や「何をしているんだ」などを言われるのではないか、と思っていたからだ。意味合いは然程変わらないような気がするが、終焉は気にしたのは彼の存在の有無だ。
 「ノーチェはどこにいる」と、静かな声色で終焉はリーリエに問い掛ける。リーリエは少しの間、黙秘を貫こうとして、ぎゅっと唇を一文字に結んでいた。終焉が大切にしているノーチェが一人で外に向かったなど、言えばすぐに威圧感が飛んでくる。彼らには言っていないが、リーリエも終焉の眼光は少しばかり苦手だった。
 己を強者だと目で語る終焉は、倒れる前のものとはまるで異なる雰囲気を持っている。何の情も抱かないような顔付きは普段と同じなのだが、根本的な何かが異なっているのだ。まるで、恐怖で人を支配するような――。

「……リーリエ。お前、俺に逆らうのか」

 息をするようにそうっと紡がれた言葉に、リーリエは目を見開いた。あくまで淡々と、少しの感情も込めた様子はない。
 しかし、その口振りが確かに懐かしくて、女は天井を仰ぎながら「はあ、」と大きな溜め息を吐く。

「……そう。そうなのね。あんた、そうなるのね」

 苦笑交じりの言葉と苦笑いを終焉に向けて、リーリエは起きたての終焉へと事情を説明する。

 リーリエ自身、ノーチェが一体何を目的として外へ赴いたのかは分からない。ただ財布を持ち出して、通過の見方を教わって、そのまま何も告げずに外へと飛び出したのだ。終焉ほどではないが、リーリエもノーチェのことを知っている。彼の瞳が一面金色に染まっているのを見かねて、「そこまで行動するのか」と呆気に取られたような気持ちにさえなった。
 似ても似つかない、小さな背中を見送って女はぐっと息を呑む。何も変わらない。突然突き動かされたかのように行動する様は、根っこから変わることがない限り同じなのだ。
 屋敷を出たのが十時前後。街まで数分から数十分。何を買い求めに行ったのか分からないが、迷うことなく辿り着いていれば、屋敷に戻るまでそう時間は掛からない筈だ。往復で三十分程度かそれ以上――だというのに、ノーチェは帰ってくるような兆しを見せなかった。
 そう気が付いたとき、終焉が徐に目を覚ましたのだ。

 リーリエが話をしていると、終焉は眠たげに欠伸をひとつ。目尻に涙を浮かべたと思えば、一度だけ気分が悪そうに額に手を当てた。目を閉じて、ふぅ、と一息。そのまま立ち上がろうと、寝具の端へ移動するものだから、女は「ちょっと」と声を掛ける。

「あんた、体調悪いのよ。動くのはやめときなさいよ」

 まるで不調であることを忘れているかのような行動に、リーリエは訝しげな顔をした。女の赤い瞳が僅かに細められる。その目を見て、終焉は小さく瞬きをすると――軽く首を傾げて「そうか」とだけ言った。
 ぎっ、と音を立てて軋む寝具をよそに、終焉はゆっくりと立ち上がる。
 すらりと伸びた背筋。長い間放置されたままの黒い髪。鬱陶しそうにそれを払いながらリーリエが座る椅子へと近寄ると、背凭れにかかっているコートをぐっと掴む。
 何を言ってもこの男はノーチェを探しに行くつもりなのだろう。
 リーリエは今度こそ大きく溜め息を吐いて、頭を軽く左右に振る。話を少しも聞いてくれなさそうな終焉に、何を言っても無駄なのだと分かってしまっているからだ。
 黒いコートに袖を通し、慣れた様子で男はそれを着こなす。髪はコートの下に隠して、ファーがついたフードを目深にかぶり、ポケットから出した黒い手袋を両手に着ける。万全な日焼け対策ともとれる姿に「全く」と女は遂に呟いてしまった。
 終焉は何も言うことはなかったが、ただじっとフードを越しにリーリエを見つめている。留守を任されるのか、ついてくるのかを無言で問われているような気がして、女は「いやねぇ」と肩を竦めてゆるりと立ち上がった。
 リーリエもまたそれなりに彼の身を案じているようで、迷いのない瞳をしている。

「……自分に責任があると思うか?」

 何気なく終焉が問い掛ければ、リーリエは「当然でしょう」と言わんばかりに緩く微笑んだ。哀愁漂うその表情に、様々な想いが込められているようにすら思える。やっぱり無理矢理ついていくべきだったわね――そう言って懐からタバコを出すものだから、男は堪らず顔を顰めた。
 露骨――とは言い難いそれに、リーリエは素知らぬ顔をして先端を柔い唇で挟む。「流石に屋敷の中で火は点けないわよ」なんて言ったが、その手には火を点けるためのライターが握られている。四角い金色に、小さな薔薇が彫られた特徴的なライターだ。何度も蓋の開け閉めを繰り返し、パチンパチンと音を鳴らす。
 その様子にどこが反省しているのだ、と終焉は口を開きそうになったが、どうも気怠さを感じてしまい言葉を呑み込む。熱があるとは感じさせないほど、清々しい顔をしながら、そっと扉へと向かう。
 その姿に、やはり不調であることが窺えるのだ。
 端整な顔立ちの額に微かに汗が滲む。機敏な動きはどこか緩く、足元のふらつきも隠しきれていない。
 それでも、男は真っ直ぐ前を見据えたまま歩いていた。扉を開けて、赤黒い絨毯を掠めてエントランスへと向かう。寒いとも暑いとも言わずにただ黙々と、黒い裾を靡かせて。
 リーリエもまたドレスを靡かせながら、エントランスへと歩いていった。「そう急かなくてもいいでしょう」の言葉に「ふざけるな」と男が呟く。

「今日は……」

 ――先の言葉を、リーリエは呆れたように肩を竦めながら聞いたのだった。