古びた手帳と冷たい感触

 ――既視感、というものがこれほど色濃く覚えることはないだろう。
 はあ、と誰にも気が付かれないように小さく、小さく吐息を洩らす。夏だというのにひやりと肌に伝わる涼しさに、堪らず身震いをする。ほんの少し冷えた体に、汗で湿った服はただ追い討ちをかけるものに過ぎない。
 彼は仄かに暗い部屋を一瞥しながら、ここはどこだと頭に疑問を浮かべる。コンクリート調の壁や床に接している面が、体を冷やすためのものになっているのは確かだ。辺りには物という物があるわけではないが、今は使われていないであろう道具が雑に転がっている。
 古ぼけた机に載っているのは、埃をかぶったランタンだろうか――。

 ズキリと痛む後頭部に手を添えて、彼は二度目の溜め息を吐いた。「どうしよう」そんな気持ちが込められたような息だ。膝を抱え、顔を埋めて、逃げるか逃げないかの思案を繰り返す。首輪の効力もあって何もしたくないのが事実だが――そうも言っていられないのだ。
 ――今日、終焉は来ない。そんな確信があった。

「…………やっぱ……魔女……連れてくればよかった……」

 ぽつり、呟いた声には自身を責めるような思いが込められている。
 膝を抱える腕にぎゅぅ、と力を込めて、「……どうしよ」と今度こそ声に出した。当てにしている終焉は来ないと分かっている分、現状をどう乗り越えたらいいのかが全く分からないのだ。
 今まで一人で考えることを放棄してきたのが、こんなにも仇になるとは思わなかった。
 ぐるぐると、働かない頭でぐるぐると思考を巡らせる。ちらりと顔を上げて、見えるのは暗い部屋に埋もれる出入り口の扉がひとつ。その向こうに仲間達が居るのは分かっていて、ぐっと歯を食い縛る。自分をこんな目に遭わせるのはどういう存在か、彼は分かっているのだ。

 首輪がある以上、彼は逆らえない。主導権が握られている以上、逆らってはいけない。

 上げていた目線を下ろし、彼は再び顔を埋めて膝を強く抱えた。こんな首輪さえなければどうとでもできたと思うが、抜け出したところで奴らを殺さない限りは何度も捕まることだろう。
 それだけはどうしても避けたかった。人をこの手で殺めるという事柄など、彼は受け入れられるものではない。
 ――恐ろしいのだ。目の前で死んでいく人間を見るのが。体を貫き、息の根を止め、目の前で熱を持っていた生き物が次第に冷えていく様子を見るのが。

 おかしな話だとは常に思う。何せ、彼の両親は――もとい、彼の一族は――皆一様に人を殺めることに慣れているのだ。〝ニュクスの遣い〟が奴隷一族であること――それを知る〝商人〟を手に掛けることで、再び奴隷になることを避けているのだ。
 当然彼もそれに加わる筈だった。生粋の殺人鬼である両親の下に生まれた以上、彼も抵抗なく、〝商人〟を殺す筈だった。
 ――だが、どうだろう。いざその時がきて武器を手に取れば、不自然なほどに体が硬直してしまった。目の前のそれらが自分にとってただの「悪」である筈なのに、それを殺めることが彼にとっては酷く恐ろしかったのだ。
 目の前をちらつく異様な光景が何なのか。ちらちらと、まるでノイズのようによぎる光景が、彼の行動を妨げ続けた。
 ――息が止まる、まるで糸が切れたマリオネットのように倒れ、手指はぴくりとも動かす、あの綺麗な瞳に生気は宿らない――。

 ――――どうして。

 無意識のうちに呟いた言葉と共に、視界が暗転したのは言うまでもない。それ以降彼は自分が人を殺められないのだと知って、なりたくもない奴隷になってしまってからの現状だ。現状を打破する手立て――首輪を外すことができるのは、一族の仲間達だとも言われている。故郷に戻らない限り、彼は奴隷のままだろう。
 自分だけはなってたまるかと思っていたものだが、やはり未来のことなど分からないものだった。
 ぎゅう、と指先に力を込めて、彼は寒さから身を守るような体勢で扉をまた見つめる。

「……最悪の誕生日……」

 ――そう、ノーチェは小さく呟いたのだった。