恋、患い1

 ────以来、飲月君は龍師たちの目を盗んでは応星の元へと足繁く通っていた。初めこそ応星はその突拍子もない訪問に驚き、雑務を終えてから慌ててお茶を出すなどしていた。貴方のような人がどうしてこんなところに、なんて呟くと、彼は一際不機嫌になったかのようにじっと応星の顔を見つめる。「何だその口調は」という謎の文句に「当然のことだと思いますが」と面食らっていると、敬語など不要だと彼は言った。
 いやいや、明らかに違う立場の人に対して敬語を抜くなど、それこそ不敬にも程がある。応星は彼が何を言おうともそれは決して聞けないと首を横に振り続けたが────、数ヶ月の月日を重ねてくると馬鹿らしくなって、いくらか砕けた口調になった。それに伴い、敬語を抜くならせめて名前を教えてほしい、と彼に言う。自己紹介のときに話したが、と言われたが、それはあくまで称号の話であって、飲月君個人の名前ではないことを指摘すれば────、彼は驚いたように微かに目を見開いた。

 思えばそのとき、応星は初めて彼の表情筋が動いたのを見たような気がした。彼は龍尊という立場にあるからか、表情が乏しく、笑ったり楽しそうな顔を見ることはなかった。強いていえば立場上の理由から自由が少ないこと、面倒な仕事が待っていること。そして、持明族は生殖能力がなく、生まれ変わるときは海に帰る程度のことしか知らなかった。そのどれもが、応星の休憩中に暇潰しと言わんばかりに彼が応星に語ったことだ。
 彼はきっと、幼い頃から龍尊としての知識を、立ち振る舞いをその身に詰め込んできたのだろう。誰でも持ち合わせているはずの個人名を訊かれて驚くほど、彼の暮らしは狭く苦しいものだったのかもしれない。
 ────なんて思いながら、応星は彼に名前を聞くのは良くないことだったのでは、と不安が胸に押し寄せてきた。名前を訊いて以来彼はぼうっと応星を見つめていて、唇を開くことがない。その表情は怒っているわけでもなければ、嫌がっているようには到底見えなかった。
 無だ。言い表すというのなら、ただ無表情がそこに広がっている。
 応星は初めて会ってから今まで馴れ合う中で、少しは彼の表情を、感情を汲み取れるようになったのではないかと思っていた。何が面白くて応星の雑務を盗み見ているのかは分からないが、応星が一人で休憩を取っているとふらりと現れて退屈しのぎに話をしてくるのだ。いつもの場所は息が詰まる、と言って眉を小さく顰める。────それすらも絵になるのだから、応星は雑念が混じらないようにと心を落ち着かせる日々が続いていた。
 彼に自分といる時間は退屈ではないのかと問うと、彼は少しだけ考える仕草を取ってから、丁度いい暇潰しになると応星に返す。それはきっと、とても光栄なことなのだろう。その頃にはいくらか緊張が解れた応星は、小さく笑った。

 ────なんて日常を送っていたが、もうじき応星は朱明に帰らなければならないのだ。せめて個人名くらいは聞いてみようと思い立って彼に問いかけたが、間違いであったのかと少しばかり不安になる。思わず背を丸めてちらりと彼を見やると、彼もまた涼やかな表情で何かを考える仕草を取っていた。
 そうしてそのまま、ポツリと言葉を洩らす。

「…………たんふう…………丹楓、だ」
「たんふう…………」

 彼、飲月君の唇から溢れた名前は、応星の予想を遥かに超える穏やかな響きだった。
 丹楓────そう呟いて分かるのは、彼の見目麗しい外見からは想像もつかないほど柔らかな印象だ。思わず二、三回と彼の名を呟いてみると、その珍しさからか飲月君、もとい丹楓は少しだけむず痒そうにしたものの、「ん」と返事をする。名前を教えてくれたということは、呼んでも構わないということだろうか。
 ────しかし、応星は幼くとも身の程を弁えている人間だ。彼に名前を教えてくれたことに対して礼を告げるものの、やはり気安く呼んでいいわけでもないことを改めて口にする。丹楓は誰からも慕われる龍尊様で、対する自分は未だに職人の片鱗すらも見せていない小さな子供だ。誰から見ても名前を呼んでもいい存在にはなり得ない。
 そう口にすると、丹楓は一度だけ瞬きをする。そして、やけに不機嫌そうに目を細めてぐっと口を閉じた。端から見ても歯軋りをしかねないような様子に、応星は微かに冷や汗をかく。丹楓は今すぐにでも名前を呼んでも構わないと言いたげな表情だ。
 彼は恐らく誰からも個人名を呼ばれることがなかったのだろう。彼は生まれながらにして龍尊として生きてきたのだ。龍尊、飲月君として生を授かったその日から、彼は「個」を捨てざるを得なかったのかもしれない。
 だが、彼の願いを叶えたくとも許さないのが周りの仙舟人だ。特に龍師と呼ばれる丹楓の付き人は、丹楓が応星に会いに行くことを快く思っていない。彼らは高貴な龍尊様がただの短命種に会うことを嫌がっているのだ。
 故に応星は極力彼らの神経を逆撫でしないように努めた。どれもこれも自分の手で忌み者を屠るための武器を作るため。そのためには立派な職人として、百冶の称号を得るため。────そうして自分が丹楓の名前を口にできるほど、内気な性格をどうにかできれば、改めて呼ぶつもりだった。
 ────それでも応星は、もう少しで朱明に帰ってしまうことを懸念して、思わず「丹楓」と彼の名前を口にする。すると、ほんの少しだけ────些細な変化ではあるが、多少満足げに彼は「悪くない」と言ったのだ。

 以来、応星は丹楓が人目につかない時間に会いに来る度、こっそりと丹楓の名前を呼んでいた。柔らかな心地のある彼の名前の響きは、口にしていてやたらと心地がよかった。彼もまた満足そうに応星が用意した茶を啜ってから、ポツリポツリと小さく話をしては仕事があると言って龍尊の立場へと戻っていく。
 ────そんなやり取りを交わして数ヶ月。応星は朱明へと帰るため、星槎の前にいくつかの荷物を置く。結局種族の違いで舐められてろくな技術は学べなかったものの、いくつもの技術を盗み見ることはできた。あとは実践するだけと己を奮い立たせ、意気込んでいると────、ふと背後から「応星」と声をかけられる。
 その聞き慣れた声にパッと振り向いて、応星は思わず「丹楓!」と口にしかけた。
 おっと、いけない。咄嗟に口元に手を当てて言葉を呑み込み、応星は改めて彼に向き直る。丹楓は普段とは異なって公的な意味合いでこの場所を訪れたようで、近くには龍師たちの姿も見受けられた。それを見かねて応星は意図を汲み取り、星槎に出入りしている師へと声をかける。


「飲月君がお見送りに来てくれました」


 そう告げれば、師は立派な髭を軽く撫でながら「これはこれは、光栄なことで」とやけに恭しく言った。丹楓は「将軍が朱明へと帰るのだから、見送りのひとつくらいは必要だろう」と素っ気なく告げる。────実際のところ、そのような気遣いなど不要であるというのは、じっとこちらを睨むような目付きで見つめてくる龍師たちの視線で分かった。
 龍尊に対して失礼なことではあるが、話はなるべく早く切り上げるのが得策だろう。
 師と丹楓が話を進めている間、応星は荷物を黙々と星槎に運び込んでいた。雑務をこなしてきたためか、自分の荷物を星槎に運び入れることに大した疲労を覚えることもなく、応星はじっと自分の手を見つめる。大きな変化こそないものの、少しだけ手のひらが大きくなったように見えた。
 荷物を運び終えると二人は話を終えたようで、「もう行けます」と師に告げにきた応星に二人が視線を移す。丹楓はいつもと同じで、応星の目から見て飛びきり美しい人だった。青く静かな瞳がじっと、応星の目を見る。
 この綺麗な顔も今日で見納めだ。万が一、成長して工造司にやって来たとしても、龍尊である丹楓にお目にかかることなど、そうそうないだろう。
 見納めに、と負けじと応星も丹楓を見つめ返すと、彼はふと思い立ったように唇を開いた。

「余が其方に会いに行っていたのは、其方の周りには特別人が少ないからだ。静かな場所で一息吐きたかった」

 同じような場所では龍師たちにすぐ見つかるからな。────彼はそう小声で言ったが、その言葉にはさすがの応星も耳を疑った。何せ工造司は鍛造で有名な場所だ。鉄があれば鎚もある。パチパチと燃え盛る火の音と、鉄を打つ鎚の音。それらを一概に静寂と称するには些か煩すぎるような気がしたが、丹楓には些細な音だったようだ。

「――――だが、気が変わった」
「…………?」

 丹楓の言葉に少しばかりの苦笑を洩らしていると、不意に彼が言葉を強めるのが分かった。

「応星、其方が打った武器で戦えることを楽しみにしている」

 凛とした口調で、丹楓は応星を見下ろしたままはっきりとそう告げた。それだけだと彼は踵を返し、惜し気もなく応星に別れを告げて行ってしまう。彼は彼でやることが多く、忙しい身だ。ここに来てくれただけでも感謝をするべきだというのに────、応星は言葉が出せなかった。

「────…………」

 胸に募るのはある種の感動。丹楓自身も戦に身を投じることも話には聞いていたものの、 自分が作る武器などに興味や関心など向くことはないと思っていた。特にあの華奢とも言えそうな体格では大型の武器を振り回すなど、到底不可能にも思える。
 そんな彼が、応星に向かって楽しみだと言った。たかだか百年も生きられるか否かという短命種に向かって、楽しみだと告げたのだ。

 ────こうしてはいられない。期待に応えたいという強い気持ちが、応星少年の体を一心に突き動かす。
 学ぶ間に試したい技術がいくつもあった。使ってみたい材料がいくつもあった。「工房が与えられない? なら実力で捩じ伏せればいい」────高貴な龍尊様とも思えないほどの力尽くな発言に、初めこそはどうかと思っていたが、今ではひとつの手段として応星の背中を後押しする。
 とにかく色々なことを試してみたかった。早く帰りましょう、と言い張る応星に、師は楽しげに微笑むだけだった。