どの依頼よりも優先して取りかかってほしいという旨の話が上がった。
工房の前でするような話ではないと、応星が案内された先はやけに広々としてた建物だ。羅浮にはいくつもの建物が建ち並んではいるが、ここまで広く、手入れが行き届いた場所は初めてだと、辺りをちらほらと見渡す。柱や窓、床に至るどこかしらも綺麗なままで、人の気配はろくに感じられなかった。
まるで外の世界から切り離された空間にいるようだった。
応星を迎えに来た持明族は、他の仙舟人よりも遥かに応星のことを嫌っているらしい。彼が興味深そうに辺りを見渡しているのを、怪訝そうな顔でじっと見つめていた。さすがの応星も、チクチクとした視線の針には気が付いていて、溜め息を吐いてから「悪かった」と呟き前を見据える。
応星が案内された先には一際豪勢な扉があった。重々しく、触ることすらも憚られるような扉だ。応星を案内した持明族は「くれぐれも失礼のないように」と釘を刺すように言い放つ。それまでは一切会話すらもしなかった存在が、たった一言応星に釘を刺すためだけに唇を開いたのだ。
この先にどんなお偉いさんがいるのだろう。――――応星は「はいはい」と適当な相槌を打ちながら、頭の中でどんな文句を言ってやろうかと考えていた。
応星は百冶になってからというものの、いくつもの依頼を抱えているのだ。それをこなすまでにかける時間は長すぎてはならない。ただでさえ彼は短命種と呼ばれる人種であり、一分一秒も無駄にはできない人生だ。それなのに――――、他の依頼よりも優先してほしいなど、我が儘にも程がある。そのくせこのような場所でする話ではない、と移動すらも強いられたのだ。白珠は何故か少しだけ嬉しそうにしていたが、応星は腹の奥で茹だっているような心地が拭えなかった。
失礼のないように、など冗談ではない。――――扉が開かれる今この瞬間、応星はぐっと拳を握った。
――――綺麗な黒髪だった。濡れた烏のように黒く、そして絹のような質感が見て分かるほどだ。細部にまで手入れの行き届いたそれに、応星はほんの一瞬だけ息を呑む。他の何よりも座り心地の良さそうな椅子に腰掛けながら、彼は応星をじっと見つめていた。海のように青々とした瞳が応星の藤紫の瞳を見据える。相変わらず女に負けず劣らずの白い肌に、一切の変化は見当たらない。
彼もまた応星よりも遥かに寿命が長いのだ。それでも一切の変化が見受けられないのは、最早持明族の付き人の賜物だろう。
応星を案内してきた持明族は深々と頭を下げていた。それに応星も倣う――――ことなどなく、ただじっと、彼の瞳を見つめ返す。煌々と輝くツノが他の何よりも美しいとさえ思えていた。驚きは殆どない。元より応星の元にやって来た遣いを見てから、薄々勘づいてはいたのだ。
かの有名な龍尊、飲月君――――今回の依頼はどうやら彼がしてきたらしいのだ。
そして応星は、そんな飲月君に手加減をするつもりは一切なかった。
「――――俺は、誰もが知っている通り、百年程度しか生きられないような短命種だ。一分一秒も時間を無駄にはしたくないんだが、わざわざ場所を移動していたずらに時間を浪費させてくれた有名な龍尊様が、俺に一体何の用だ?」
「貴様! この方を誰と心得る!?」
よくもそのような態度を取れたものだ、と頭を下げていた持明族は咄嗟に応星へと掴みかかった。ぐらりと揺れた視界が少しばかり鬱陶しく、予想をしていたその怒号に応星は眉間にシワを寄せる。このまま頬でも殴られるような勢いではあり、柱の裏から数人持明族が現れたのは予想外だった。良くて頬、悪くて腕――――怪我を負う覚悟を決めていると、不意に制止の声が飛んでくる。
「よい。皆下がれ、余はこの者と二人で話がしたい」
先程の言動に関して自分は一切咎めるつもりはない。――――そう言って飲月君は持明族の付き人である龍師たちを止めるや否や、追い払うように出て行けと言う。
凜とした低い声にピタリと動きを止めた彼らは、「しかし」と飲月君の言葉に反論をしようとした。この者は貴方様に無礼を働いたのですよ、と尤もな正論を述べて、前言の撤回を求めようとする。せめて一発でも殴らなければ気が済まないようで、応星の胸倉を掴む手は一向に離れる兆しを見せなかった。
――――だが、対する飲月君はひとつ溜め息を吐いたあと、微かに眉間にシワを寄せてもう一度唇を開く。
「聞こえなかったのか?――――下がれ、と言ったのだ」
鬱陶しげな声色に、僅かながらも細められた鋭い瞳。頬には微かにピリピリと何らかの刺激が伝わってきて、渦中にいる応星も少しばかり不安を覚える。彼に対する言動が不敬なものではあると分かりきっているものの、訂正するつもりは毛頭ない。それでも彼の怒りは応星の背筋を掠めた。
飲月君の一言により、龍師たちは揃って応星に睨みを利かせる。掴まれていた胸倉は漸く解放されて、「やっと息が楽になった」とわざとらしく呟けば、苛立ちを込めた視線を向けられた。
彼らの怒りは尤もだが、応星も応星で引く気は一切ない。いくら龍尊とはいえ、短い人生の全てを龍尊にだけに費やすわけにはいかないのだ。
応星が鍛冶に人生を費やす理由はただひとつ――――忌み者を屠るため。そのために彼はこうしてわざわざ割り込んで依頼をしてくることは今後ないよう、告げるつもりだった。
――――飲月君の一言で彼らは渋々――――本当に渋々と言った様子で部屋を後にする。豪奢な扉が閉まるのを応星が背中で聞き届けると、それを切っ掛けに彼がゆっくりと席を立った。
すらりとした背筋が、佇まいが、所作のひとつひとつが応星の目を惹きつける。応星は一分一秒も無駄にはしたくないと言い放ったが、彼の行動のひとつひとつはこの目に焼き付けておきたいとすら思ってしまった。
「……先程は龍師たちがすまなかった。彼らの代わりに詫びよう。怪我はないか?」
応星が手を伸ばせばすぐにでも捕まえられるほどの近さに、彼はいた。
怪我はないと言うように応星は手を振って「何とか」と大袈裟に言う。仕事道具である腕は無事だと言えば、飲月君は安心したようにホッと息を吐いた。
「其方の言うことは尤もだ。本来なら余が其方の工房にまで足を運び、直々に依頼をするべきだった――――の、だが…………」
いかんせん、龍師たちがそれを許してくれなくてな。其方をここに連れてくると言って聞かなかったのだ。
時間を浪費させてすまなかった、と彼はほんの少しだけ、困ったかのように眉尻を下げた。――――それが応星の不意を突いて、応星は再度ぐっと息を呑んだ。幼い頃にも彼と接する機会はあったが、その無表情な顔立ちは以前のものと何ら変わりがない。それどころか少しだけ、以前よりも感情が希薄になったような印象を受けたが、応星の杞憂だったようだ。
応星は胸の奥でドクドクと高鳴る心臓をどうにか悟られないよう、「いや、構わんさ。龍尊様も忙しいんだろ」と彼の擁護をする。どのみち先程の言動は応星を小馬鹿にしてくる龍師たちを煽るために言い放った言葉であり、飲月君に向けたものではないからだ。まさか助け船を出してもらえるとは思わなかった、と素直にそう言えば、飲月君は小さく首を傾げて「当然だろう」と言う。
「余は其方に依頼をしたくて今ここにいるのだ。暴力沙汰を起こしたいわけではない」
飲月君は腕を前で組み、眉間にシワを寄せて溜め息がちにそう言った。百冶の称号を得た応星が短命種であること、幼少期に彼と会話をしていたことが気になって、龍師たちは応星を目の敵にしているらしい。応星自身、彼と言うほど親しいという自覚はないものの、飲月君の苦労や暮らしの狭さには理解があるつもりだった。彼らの忠誠心には一目置くものがあるものの、とうの本人はそれを気に入っている様子ではなかった。
――――とはいえ、助けられたのは事実だ。応星は彼に「助かった」と言えば、彼は驚いたようにきょとんとする。まるで礼を言われるのはお門違いだと言わんばかりの様子に、応星が驚いていると、彼は咳払いをひとつ。「それで、」と会話の続きをしようとしているのが分かった。
「余の依頼は受けてもらえるのだろうか」
応星の機嫌を窺うような仕草に、応星は思わずぐっとくる何かを感じた。先程から自分の体の様子がおかしいことには気が付いているが、応星はそれに意識を向けることがないよう、首を縦に振る。折角ここまで来たんだからまずは話を聞かせてくれ、と言えば、彼は頷いた。
不意に水が流れるような音が鳴り始める。コポコポとどこかで聞いたことのある小さな音に耳を傾けていると、飲月君の身の回りに水が少しずつ集まっているのが見受けられた。海のように深く青く彩られていた瞳は、彼の力に呼応するように輝いているようにさえ見える。それは――――、彼が人間ではないことを示唆しているようだった。
そうして水が流れる音と共に現れたのは、やけに古ぼけた一本の槍だった。柄はくすんでいて刃先は刃毀れが目立つ。その中で一層目を引いたのは、槍全体に入った亀裂のようなヒビだ。
「これは…………」
誰がどう見ても寿命を迎えているであろう槍を手に、応星は呟きを洩らす。応星が槍を手にしても何も言わない姿を見るに、彼が依頼したいことはこの槍のことなのだろう。これ以上の破損を促さないように慎重に、そっと立ててみる。この槍は応星と同じくらいの長さがあり、飲月君にとってはいくらか長い背丈のものだった。これを彼が振り回すという想像はあまりできないが、剣よりも遥かに似合っている代物だった。
ズシリと手のひらを伝う重量に、応星は片眉を顰める。随分と長い間使い込まれた様子の槍は、自らの重量でひび割れ亀裂が入ったにしてはあまりにも傷が大きい。他の何かからの影響が強く出ているはずだと仮説を立てていると、彼が「この槍は」と唇を開く。
「代々龍尊に受け継がれていたものだが、やはり年月には勝てず、傷が目立つようになった。――――それでも手入れをしつつ使っていたのだが…………つい先日、余の水流に耐えきれず、このような姿になってしまったのだ」
応星の手に収まっている槍を手に取り、彼は少しだけ手に力を込める。それは、応星から見ても大した力量ではないことが分かるほど、小さな力だった。
――――だが、そんな力にさえ押し負け、彼の手中に収まっている槍は、バキンと鈍い音を立てて大きく刻まれた亀裂から割れるように折れてしまった。彼の足下にはボロボロといくつもの欠片が落ちて、コン、コンと音を立てる。
そのような姿になってしまうほど、使い古された槍を目の前に応星は言葉を失った。単に使い続けただけでは割れるなんてことはないはずなのに、彼の槍は見るも無惨な姿へと変貌している。相当無茶な使い方をしたに違いない、と思いながら、応星は少しだけその槍が羨ましく思えた。
――――こんな状況になるほど、長く使われてきたんだったら、こいつも本望だろう。
武器を作る職人として、長く使われてきた武器を見るのは心に響いてくる何かがあった。喜びにも似た感情――――恐らく自分は、こうして同じものを長く使ってくれることに嬉しさを覚えているに違いないのだ。
彼は変わり果てた槍の姿に少しだけ残念そうに瞳を伏せていた。応星はそんな彼に感情が悟られないように細心の注意を払いながら、「この槍は随分と重かったな」と言う。
「俺はまだお前のことを知っている訳じゃないから確証はないが…………お前には、この槍は重かったんじゃないか?」
聞いたところ、受け継がれてきたものであって、自らの意思で選んだものじゃないだろ。――――そう訊ねてみれば、彼は一時的に思考を働かせた後「そうだ」と答える。応星がどれだけ砕けた口調になろうが、彼は一切気にしていない様子だ。
「だから使う時は主に投げるか、水に乗せて」
「――――ちょっと待ってくれ、投げるって何だ」
応星の問いに彼は丁寧に答えるよう、少しだけ手を動かした。――――しかし、彼の口から紡がれた「投げる」の発言に、応星は思わず彼の言葉を遮ってしまう。
思えば先程飲月君の言葉には「水流に耐えきれず」という言葉があった。もしかして、――――もしかしなくとも、彼の槍の使い方は応星の常識の範囲を軽く超えているのではないだろうか。
そう不安になって彼に問えば、彼は一度だけ視線を外の方へと向けると、「ここでは使えない」と言って応星に付いてくるようにと告げた。
扉から出れば龍師たちが睨むように応星に視線を向ける。彼らは龍尊への不敬な態度を一切許す気もなく、応星が一人で部屋から出ようものなら挙って応星を取り囲み、制裁を加えていただろう。――――そう思わざるを得ない緊張感に、応星は堪らず眉間にシワを寄せたが、飲月君が間髪入れずに離れるように告げると、彼らは渋々従っていった。
彼が歩いて行く先をついて行くと、何もない広い空間へと案内された。周りには建物はなく、木々が多少生えている程度。木製の槍や剣などの道具が転がっているのを見る限り、ある種の訓練場であることは明白だった。
そこに落ちている槍を手に取り、飲月君は槍に軽く水を纏わせる。近くにある立派な木を一本視界に入れて、ふい、と手を横に振った。すると、彼の動きに合わせるように槍が木を目がけて一直線に走る――――。
バキィッ――――と、おおよそ一本の槍から発せられたとは思えない音が大きく鳴った。
「…………加減はしたが、やはりこうなるか」
呆れるような声色で、彼はふっと肩の力を抜いた。彼の力は龍尊特有のもののようで、応星は今まで水を扱う種族を見たことはない。その応星が驚いたのは、彼の圧倒的な力――――ではなく、槍の惨劇だった。
先程見せてもらっていた飲月君愛用の槍は、彼の力には耐えることができていたらしい。木っ端微塵になった槍の破片を拾う彼を見ながら、応星は額に手を当てて軽く頭を左右に振る。元より応星の思う常識が通用するとは思っていないが、槍の扱い方がここまで違うとは思ってもいなかったのだ。彼のあの扱い方であればそれほど重量は気にもならないだろうが、槍自身はそうともいかないだろう。
そもそも、武器は水に乗せて使うような想定を一切していないのだ。
「…………因みに、投げるってのは」
「ああ、こうだな」
ふう、と一息吐きつつ、応星はもうひとつの扱い方を聞いた。それこそ応星の予想した通りの扱い方で、彼は再び落ちている槍を拾い上げてから軽く振る。彼の手から離れた槍は一直線に木へと向かって、ドッという音と共に幹へと刺さった。
「…………槍は投げるもんじゃないからな……その長さを利用して、相手との距離を保ちながら振ったりするんだ」
「そうか」
常軌を逸した彼の槍の扱い方に、応星は頭痛がしたような気がして思わず頭を抱える。このような使い方をすれば、今まで見たこともないような壊れ方をするのは間違いなかっただろう。その上、代々受け継がれてきたという彼の槍だ。遅かれ早かれ奇妙な壊れ方をするのは間違いなかったはずだ。
今回、その状況に陥ったというだけで、不思議に思うことは何ひとつない。
――――そうして彼が応星に依頼したい内容というものは、槍の修繕、或いは新調だった。
そんなことのためにわざわざ彼は――――というよりは龍師たちは応星を彼の元に連れてきたのだろうか。ふと、小さな疑問が脳裏によぎるが、彼は応星に始めに言っていた。自らの意思で応星の元を訪ねようと思っていたが、龍師たちがそれを良しとはしなかったのだ。
何せ、龍尊である飲月君の武器が壊れてしまったと周りに知られれば、余計な騒ぎが起こりかねない。彼はこの身ひとつで応星の元に向かうつもりではあったと言うが、万が一騒ぎになれば収拾が付けられなくなることを懸念していたのだろう。
応星は時間をひとつも無駄にしたくはなかったが、しかし、龍師たちの考えも分からなくはなかった。
「…………正直、ここまで壊れたもんを修繕ってのは、骨が折れるな…………そしたらまだ新調する方がいいとは思うが……」
代々受け継がれてきたっていうもんなぁ。
そう呟いて、応星はうんうん唸り始める。先程も言った通り、壊れ方によっては直すよりも新しい武器を迎えた方が早い。自分の手に馴染むものを自分で見つけて、また長い年月をかけて慣れていく方が得策ということもある。
――――しかし、彼の槍は受け継がれてきたものだ。その伝統を、今ここで断ち切るには周りに反感を買いかねない。
さて、どうしたものかと応星は悩んでいると――――彼は首を横に振って、「其方をそこまで悩ませたいわけではない」と応星に告げた。
「時間は有限だろう。この程度のことで長い時間を取らせるわけにはいかない。龍師たちからは余が上手く言っておこう。其方の言う通り、新しく見繕うことにする」
そう言って彼は応星に持ちかけた話を諦める素振りを見せた。――――実際、こんなところで長い時間悩むより、龍尊自らが選んだものを手に収める方が話が早いだろう。
――――だが、どれだけ性格が傲慢だろうが何だろうが、応星は一人の職人だ。武器に関する話を持ちかけられた以上、断るつもりは毛頭なかった。
「俺を誰だと思ってるんだ? 少しばかり時間をもらうが、お前が気に入る槍を必ず作ってやるさ。どんな剣にも負けず、水の力にも負けることがなく、それでいてお前が扱えるよう重さを調整だってしてやるさ」
百冶として依頼された以上はやり遂げないとな。――――そう付け足してから、さすがに馴れ馴れしすぎたかと、そうっと横目で彼の顔を見れば。彼は呆然とした表情をしていたかと思うと――――、フッと小さく微笑んだ。
柔らかく、そして綺麗な微笑みだった。青々とした空と白い雲がより一層彼の儚さを引き立てているように見えて、思わず呼吸が止まるのを応星は自覚する。全身を巡っている血液が、今まで止まっていたのではないかと思うほど、流れ出しているのがよく分かった。バクバクと胸の奥で高鳴り続ける心臓に呼応して、顔が熱くなるような感覚がする。
何の指摘もされないことが唯一の救いにも思えた瞬間だった。嘘だろ、と独りごちたくなる衝動を抑え、言葉をぐっと呑み込む。――――思えば幼少期に彼を初めて目の前にしたときも、似たような衝動に駆られていた。幼い頃だったが故にその理由など、考えたこともなかったが、大人になった今ではその意味が少しだけ分かったような気がした。
――――しかし、そんなことに現を抜かしている場合ではないのだ。
応星は気が付かれない程度に小さく息を吐き、心を落ち着かせる。彼は応星が少しだけ様子がおかしいことに気が付いているようではあったが、何かを言うことはなかった。
代わりに数秒だけ考えるような仕草を取ったあと、「……応星」と応星の名前を口にした。
正直な話、顔を合わせて以来「其方」としか言ってこなかった彼からの名前呼びに、応星は驚きを覚えてしまった。何せ自分は一介の短命種に過ぎない。そこに、努力を重ねて得た「百冶」という称号があるだけの、一人の人間だったからだ。だから、名前を覚えていられていることに、一時的に言葉を失った。
だが、応星は咄嗟に自身を持ち直し、「何だ」と言葉の続きを待った。
彼は龍尊、飲月君だ。彼の一言で龍師たちは一斉に動き出し、応星の身柄を拘束することだってできてしまう。今までの自らの言動が、よくよく考えればあまりにも不敬なものばかりで、応星はほんの少しだけ背筋が凍るような感覚を覚えた。
不敬だと言われて投獄されるか――――或いは、追加の依頼があるか。
どんな言葉を言われても動じないよう、彼はきゅっと拳を握り締め、飲月君からの言葉を待った。
とうの本人はゆっくりと、小さな唇を開いて言う。
「……………………もう、丹楓とは呼んでくれぬのか……」
――――彼の突拍子もない言葉に、応星はふっと笑い、「ここじゃさすがに不敬だ何だと言われるだろ」だなんて答えたのだった。