古びた手帳と冷たい感触

 時を遡ること二日ほど前。花火大会を終えてからというものの、ノーチェは終焉の言葉を何度も何度も思い返した。花火が落ちる直前に見た、やけに真剣な――と言いつつも、終焉は元から無表情なのだが――顔をした終焉の言った「何か欲しいものはあるか」という問いが頭から離れないのだ。
 初めこそ彼は、終焉が何かを与えたいだけの欲求を持っているのだと思っていた。服に始まり、衣食住全てを与えられているノーチェからすれば、その問い掛けは今更、と呼べるようなもの。それが唐突に、何故か訊かれることになったのが、彼にとって不思議でならなかった。

 ほんのり目を覚まして、天井を仰ぐノーチェは寝具の上で寝転がっている。日中だというのにやることも特に与えられず、終焉はここのところ忙しなく動いている。花火大会が終わったのを切っ掛けに、再び〝教会〟や〝商人〟が動くことを懸念していることはよく分かった。それに対応する術のないノーチェといえば、ただ屋敷の中でゆっくりと、呼吸を繰り返すだけだ。

 ――何か、この真夏に何かあっただろうか。

 そう思案を繰り返すうちに、ノーチェは「あ」と何かに気が付く。そのままゆっくりと体を起き上がらせて、寝具の端へと移動する。――が、お目当てのものは壁にかかっていなければ、机の上に置かれてもいなかった。今が何月の何日なのか、知る術を求めて体を起こしたというのに、不服な結果に終わっている。
 人目がなく、一人で居ることが少し気を大きくしているようで、彼は不服そうに唇を尖らせて「むぅ」と唸った。ここ最近終焉の傍にいる所為か、男の何気ない行動が身に染み付いたかのように、ノーチェ自身も真似ていることは認知している。
 そのためか、彼は自分の頬をつねって、「何してんだろ」と小さく呟きを洩らした。
 目的のものを探すため、ノーチェは寝具から立ち上がり、赤黒い絨毯を素足で歩く。ざらざらとした感覚――、扉を開けて、廊下にまで続いたそれにふ、と足を踏み出したとき、ほんの少しの好奇心が芽生えた。
 部屋を出て何気なく向いた先――本当に端にある部屋がやけに気になる。彼はその部屋に入ったことはないが、終焉が入った記憶も滅多にない。後をついて回る度に見掛けるのは、男の嫌そうな目線だった。

「……何があるんだろ」

 無表情で感情が希薄の終焉にそこまでさせるものがあるのか。
 彼は小さく独り言を洩らすと、何気なくその扉の方へと歩みを進める。特別重くはない足取りだが、軽い足取りにもならない。ほんのり胸を高鳴らせるのは、見知らぬ間に抱いた緊張で。どくどくと、吐き気すらも覚えるような鼓動だった。
 僅かに引き摺るような足でその扉の前に辿り着くと、ノーチェは「あ、」と呟いた。それは、囁きでもなく、吐息のようなものだ。何がそうさせたのかは分からないが――、彼はその扉にゆっくりと手を伸ばす。

 ここに入って、見なければならない。――そう、誰かが囁いたような気がした。

 きぃ、と音を立てて開いた扉の先を見るや否や、彼は絶句した。
 はくはくと唇の開閉を無意識に繰り返し、そのまま噤んでしまう。足を踏み出してその部屋に入って、ゆっくりと扉を閉める。
 そうして分かるのは、この部屋の異質さだった。

「……何で……どうして、ここだけ……埃が……?」

 埃ひとつない屋敷の中で、端の部屋だけが異様に汚れているような気がした。
 閉めきられたままの遮光カーテンは少しも動くことはなく、窓は曇っているようにも見える。ガラスの向こうは森が広がっていて、ノーチェが自室で見るものとは変わりはない。ただ見える角度が多少変わっているだけで、見えるものに変化はないようだ。
 その代わりに、部屋の中には誰かが使っていたような形跡が残されたままだった。
 部屋いっぱいに置かれた本棚を埋め尽くす本。寝具さえ見付からないこの場所にあるのは、程好い高さの机がひとつ。本が一冊置かれていて、それ以外のものは何ひとつ置かれていなかった。
 書庫、というわけではない。――だが、その部屋には沢山の本が並べられている。それも、不自然なほどに、黒い背表紙のものばかりだ。
 一歩、また一歩と足を踏み出しながら彼はそれを眺める。壁に沿うように並んだ大きな本棚は、一面が黒で覆われている。背表紙に文字などはなく、何がどのような本なのか、まるで分からない。
 だが、ノーチェはそれを見たことがあった。

「……黒……これ……あの人の、部屋にも…………」

 見たことがあると思うその黒い背表紙は、以前ノーチェが終焉の部屋で見たものと酷似している。墨で塗り潰したかのような本は、見たこともないものだったから、尚更記憶に残っている。
 彼は何気なく本棚に近付いて一冊を手に取ると、何気なく外装を見渡した。
 それに――彼の動きが止まる。

 以前終焉の部屋で見たものは難なく読めるほど、真っ白な紙を使っていた。小説というよりは手記のようなもので、やけに古ぼけた印象のあるものだ。ノーチェはそれを最後まで読んではいなかったが、再び読む気にはならないような気持ちが胸に宿る。
 理由は分からない。だが、確かに不愉快だと、無意識のうちに思っているようで、読みたいとは思わないのだ。
 ――それは、ノーチェが今手に持っている本も同じだ。手に取ったものの、読みたいとはこれっぽっちも思わない。寧ろ、読んではいけないと――読みたくはないと、胸の奥がざわめきたつ感覚を覚える。

 ――真っ黒な本だった。背表紙や、表紙、中のページに至るまで、どこまでも黒い本だった。

「………………」

 ノーチェはそれを本棚に戻し、窓の方へと目を向ける。埃臭く、換気のなっていないその部屋の窓を開けようと思ったのだ。
 先程の不快感を洗い流すような気持ちで、歩を進めてそれに近付く。丁寧に鍵まで掛けられたその窓を開くためにカーテンを開けて、ぐっと窓を開けた。

 瞬間、ふわりと生温い風が彼の頬を撫でる。熱気を含んだそれが、屋敷と外の境界を曖昧にして、夏を実感させてくる。汗こそかかないが、熱風は彼の胸の奥をつついていた。
 「……掃除でもしてみようかな」――そう何気なく呟いた後、不意に近くにある机に惹かれて目線を落とす。たった一冊の本――というよりは手帳――がポツンと置かれた机を、両の目で捉える。
 黒くはない。勿論、中身も黒いような印象は受けない。表紙や裏表紙には何も書かれていなかったが、彼はそれを読まなければならないような気がした。

「――何をしている」
「――ッ!」

 その小さな本に手を伸ばしていると、不意に低い声がノーチェの後方から聞こえた。まるで自分の真後ろにいるかのような近さと、芯まで響くような声色だ。それに驚き、ノーチェは咄嗟に振り返って自分の真後ろを軽く見上げた。
 結論から言えば、彼の真後ろには誰も居なかった。正確に言えば、ノーチェが入ってきた扉の向こうに終焉が静かに立っていて、ほんのり俯いている。両手をコートのポケットに入れている様は誰よりも似合っていて――、どういうわけか、普段よりも威圧感を覚えるものだった。

 ――音が聞こえなかった。

 ふと、脳裏によぎるのはそんなこと。ノーチェが部屋に入るときに鳴った筈の、扉の軋む音が何ひとつ耳に届かなかったのだ。
 あの扉の軋みは鳴らさないようにと気を遣っても、嫌でも音が鳴ってしまうものだ。加えて辺りに騒音は聞こえず、彼の耳に届くのは生温い風がカーテンを揺らす音だけ。そんな静けさの中で扉が開く音が聞こえないなど、ある話だろうか。
 それはまるで、初めから扉など閉まっていなかったようで――少し、気味が悪かった。

「……帰ってたの」

 ――気を紛らせるようにぽつりと呟くが、彼の体にのしかかる威圧感はこれっぽっちも拭えなかった。じわりと背中を伝う汗が暑さから来るものなのか、冷や汗なのか、今のノーチェには全く見当も付かない。ただ、表情を隠すように俯いている終焉の様子を窺っていたのだ。
 男はゆっくりと唇を開くと、同じ言葉を繰り返した。何をしている、と、つい先程と何ら変わらない声色でだ。
 彼はそれに、僅かながらも眉間にシワを寄せると、「何もしてない」とだけ呟く。「掃除でもしようかと思っただけ」――そう呟くと、終焉は「そうか」と口を洩らし、ゆっくりと顔を上げる。
 その目は酷く恐ろしかった。

「…………この部屋は何もしなくていい」

 やけに柔らかな口調とは裏腹に、顔は「余計なことをするな」と言わんばかりのもの。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。特に終焉の目付きは、最早ノーチェを睨み付けるようなものと酷似している。間違えた行動を取れば、すぐにでも手を上げられてしまう――そんな目だ。
 そんなわけにはいかない、と彼は言葉を紡ごうとしたが、ぐっと口を噤んでゆっくりと目を逸らす。反抗してはいけない。ノーチェの中に根付いた奴隷の意識がそう語りかけるが、どうしても手元のそれが気になってしまう。
 ほんの少し古びたような、狐色の、手のひら程度の大きさしかないそれが――。

「出ていけ」

 ――不意に紡がれた終焉の言葉に、ノーチェは瞬きをひとつ。突然の言葉に彼は「え」と洩らしかけるが、間髪入れず男が次の言葉を述べた。

「聞こえなかったのか? この部屋から出ていけと言っているんだ」

 じわりと背筋を伝う汗が熱さによるものではないと気が付いたとき、ノーチェは自分が無意識のうちに体を強張らせていることを知った。特別恐ろしいと、恐怖を感じているわけではないが、近寄りがたい雰囲気を男は醸し出している。睨むように僅かに眉根を顰め、鋭い目付きで彼を射抜いているのだ。
 ここは大人しく従わなければ何をされるかは分からない。
 ノーチェはゆっくりと手を引き戻し、とぼとぼとした足取りで終焉の元へと歩み寄る。一歩、また一歩と近付くにつれて、肌に伝わるチクチクと針を刺すような視線が痛かった。
 「…………ごめんなさい」何気なくそう謝ってみれば、終焉はノーチェが部屋から出たのを見計らった後、扉を閉める。ばたん、と大きく、乱暴に閉めるような様子は、あまり見たこともないほど不機嫌に思えた。

「……私は…………この部屋が嫌いなんだ」

 だから不用意に立ち入らないでくれ。
 男はそう呟くと、ノーチェを置き去りに踵を返して階段の方へと歩いていった。余程慌てていたのだろうか――、その足には終焉が愛用している青い靴が履かれている。コツコツと、低くくぐもった音が赤黒い絨毯が敷かれた床から鳴っていて、ノーチェは小さく唇を尖らせる。
 ただ、アンタの為に多少の手伝いをしたかっただけなのに。――そう独り言を洩らして、彼は何気なく男の後をついていった。今まで口にしていなかった終焉の「嫌い」を頭の中で反芻しながら、トントンと階段を下りる。あんな意味の分からない部屋をそのままにしておくのは、何故か嫌だと思う自分が居た。