黒を纏いて影を追う

 男の足取りは、お世辞にも軽いものとは言えなかった。
 しかし、体調が悪い、なんて判断はできそうにないほど、足取りはしっかりとしている。時折ふらつくように体が傾くが、何食わぬ顔で軌道を戻すものだから、末恐ろしいものだとリーリエは思った。
 地面はすっかり乾いた土になっていて、周りは草原のように広く青々とした草木が繁っている。道中、見上げた桜の木を通り過ぎ、終焉はただ彼の元へ向かおうと街へ歩いている。
 途中、昼の鐘が大きく響いた。時間感覚のない彼らは「もうお昼なのね」「……時は金なりとはよく言ったものだな」なんて会話を交える。その間にも終焉の目はただ真っ直ぐ前を見ていて、傍らのリーリエなど視界にも入れなかった。
 それを気に――することなく、紫煙をくゆらせ、ふふんとほくそ笑んだ。

「……あ、そうだ。あんた無理したと思ったら承知しないわよん」
「何故」
「何故って……馬鹿ねぇ。医学を嗜んだ身としては、本当は外にも出したくないのよ?」

 リーリエはタバコを咥えたまま両手を腰に当て、子供を叱る母親のような目で終焉を見上げる。「あんたは前例がないんだから」と言って、歩く終焉の背をひたすらに追った。その様子を男は横目で見て、「善処する」と言ったが――、無理をするのは明白だ。
 自分が気を遣ってやらなければ。
 ――そう、リーリエの勘が囁く。
 自慢ではないが、リーリエの勘はよく当たるのだ。こればかりは目だの魔法だの、そういった特別なものを駆使しているわけではない。ただ何となく、そう思ったから、行動に移すまでなのだ。
 だからこそリーリエは、頭の片隅で思う。――ああ、面倒なことになるのだ、と。

「……ほんっと、賑やかね……」

 呆れるわ。
 そう呟いたリーリエと同じように、終焉もまた目の前をじっと見つめている。眼前に広がる街の景色には、やはり人が多く、熱気だか活気だか区別のつかない暑さがそこにある。子供のはしゃぐ声も、値引きを強情る声も、もう聞き慣れたものなのだ。しかし、それに加えて降り注ぐ太陽の熱には慣れることがない。
 終焉はフードを深くかぶり直し、ほう、と溜め息を吐く。太陽が苦手な男にとって、夏に外へ出るという行為は自分の首を絞めるものと同じだ。暑さを感じることはないのだが、目を焼く眩しさには酷く悩まされている。ちりちりと、目の奥が痛むような気がして、終焉は地面を見るように俯いた。
 石畳の広がる地面を、ノーチェはどのような足取りで歩いたのか。ゆっくりと目を閉じて感覚に縋ろうとするが、どうにも体調が悪いようだ。頭の思考もまとまらなければ、じっと突っ立っているだけで気分の悪さも覚えてくる。
 胸の奥――腹部から何かが競り上がってくるような不快感。頭を締め付けてくるような頭痛――それらが相まって、終焉は顔を歪めた。

「……リーリエ」

 ぽつりと消え入りそうな呟きを洩らし、終焉はリーリエの名を呼ぶ。
 リーリエは立ち止まる終焉の傍らでタバコを握り消し、「何かしらん」と陽気に答えた。その目は爛々と輝いていて、街の在り方に心を躍らせているようにも見える。普段街に行かない分、目の前の光景が新しくて仕方ないのだろう。
 しかし、街並みの把握をできていない分、迷子になることを懸念しているようだ。終焉の傍らから離れず、男の言葉をただ待つ。
 ――そんなリーリエに、終焉は目頭を押さえながらぽつりと言った。

「先導しろ」
「あんた迷子になりたいの?」

 終焉の言葉に間髪入れず、リーリエは先程までの爛々とした目付きを変えて、酷く訝しげな目で終焉を見る。形の整った眉が眉間に寄って、シワが作られていた。道を迷うことに絶対的な自信があるのか、リーリエは迷うことなく言葉を続ける。

「私、森に住んでる分、街なんて分からないわよ」

 特に人が多い時間帯は。
 ふんぞり返るほどに胸を張って、女は威張るように言った。威張れるような言葉ではないことは確かで、終焉は至極嫌そうに溜め息を吐く。はあ、とあからさまに肩を落とし、「何のためについてきたんだ」と言いたげだ。
 終焉は闇雲に先導しろなどと言っているわけではない。女の勘の良さは重々承知している。調子が良くない終焉には、頼れるのはリーリエだけで、それ以上の成果など求めてはいないのだ。
 終焉は言った。

 ただ歩くだけでいい。「何となく」道を行けばいい。不調の所為か、鼻も利かず、ノーチェの匂いを辿れない。生憎彼を易々と手放す気はない――と。

 ――末恐ろしい執着心だと、女は思った。歪みのない、透き通っているが暗い色の両目が、憎らしげに青い空を睨んでいる。男の優れた五感すらも不調と晴天の下では成す術もなく、封じられてしまう。ああ、忌々しい――と、終焉が口癖の如くひとりごちた。
 死にたいから、彼を手放さないのか。愛したいから明け渡さないのか。正直なところ、リーリエには終焉の私情など理解はできない。――それでも、男のために最善を尽くしてやろうと思ってしまうのだ。

 漸く噛み合った歯車を、狂わせる予定など毛頭ない。

「仕方ないわねぇ。本当に迷子になっても知らないから」

 金の髪を振り払い、リーリエは赤い口紅のついた口の端を上げて笑う。

「街中は把握しているよ。お前はただ、導けばいいのだ」

 酷く澄んだ声に後押しされ、リーリエは土から石畳へと足を踏み入れる。一斉にざわめきが耳に届くような違和感を覚えながら、つい、「気が付いていないのね」と呟いた。
 それは、人の賑やかさに掻き消されたのか、不調故に届かなかったのか――男は反応を示すことがない。黒紫のヒールはカツン、と音を立てて迷うことなく進み始める。

 ――勘の良さは終焉も負けてしまうほどだった。

 自分よりも背の低い女を追うように歩きながら、終焉は堪らず息を洩らす。感嘆の息に最も近い吐息だ。リーリエの足取りが軽いものであるのを見かねて、本当に「何となく」で歩いているものであることを実感させられる。
 目に頼るわけでもない、力に頼るわけでもない。生まれつき備わっているただの勘に、男は圧巻した。
 特別注目の的になるわけでもない終焉は、リーリエに注がれる視線に気が付いてしまう。
 ルフランでは嫌われている黒を身に纏う女が、ただ悠然と街中を歩くというのが注目を集めているのだ。相も変わらず終焉は無意識のうちに気配を霞めているが、リーリエは何も気にせずに堂々と歩いている。胸元が露出した、スリットドレスを靡かせて、観光しているかのように楽しんでいるのだ。
 自分の日焼けなどこれっぽっちも気にせず、すらりとした生足に、時折周りの目が釘付けになる。――リーリエは、終焉とは別の意味で視線を集めることが殆どだ。

 こんな注目を集めていて何が楽しいのだろうか。

 リーリエの軽い足取りについていく終焉の足は重い。一歩一歩が怠そうに、ゆっくりと進められる。歩幅が終焉の方が広いお陰か、距離は開かないのだが、下手をしたら見失ってしまう可能性もあるだろう。
 終焉がリーリエの姿に目を配らせていると、不意に女が「ねえ」と言った。
 スキップでもしそうな足をしながら、リーリエは青い空を見上げている。「何だ」と呟いたつもりだが――、あまり声にはならなかったようだ。リーリエはふと振り返って終焉を見たと思えば、「あんた大丈夫なの?」と言う。
 体調のことだろうか。反射的に頷こうとすれば、女の指先が自身の目元を差した。

「目、どう? あまり診ていないけど」

 トン、と触れていた女の目元は、終焉のものを指し示しているようだ。
 男はリーリエの意図を察すると、何気なく自分の目元に触れる。金色に彩られた、透き通る瞳がゆっくりと、指先で隠れて見えなくなる。眉から頬まで、傷痕をなぞるように撫でた後、終焉は「悪くなった」と言った。
 視力が悪くなった。――そう言って、目を伏せる。
 特別見えなくなるわけではない。しかし、無事であるとは言い難い。元々視力が良かった終焉は、悪くなった片目を不便だと思っているが、愚痴を洩らすことはまずない。片目を補うようにもう片方を駆使している気がしているが、生活に支障が出ることはなかった。
 そう、悪くなっちゃったのね。――そうリーリエは呟くと、再び前を見て歩く。鬱陶しいほどの市場が通り過ぎて、日陰の少ない噴水広場の近くへと躍り出た。時計塔の時計の針は十一時近くを指している。あと一時間もすれば昼食だ。
 噴水の水音が心地好い。それらを掠め、リーリエは軽く迷った後にふらりと裏路地へ足を踏み入れる。日陰の心地好さに漸く一息吐いて、終焉は安堵の息を洩らした。日の下にいるのは酷く億劫で、子供達の声すらも耳障りに思えてしまうのだ。
 そんな厄介なものからの解放は、終焉の心を落ち着かせるに至った。
 青空は顔を覗かせているが、太陽の鬱陶しい光は降り注いでこない。日陰にいる分、頬を撫でる風がやけに涼しく感じられる。体は重いのだが、解放された途端に足が軽くなるような感覚に、男は陥った。

「……裏にいるということは、また厄介なことに巻き込まれているのか?」

 何気なくそう呟けば、リーリエは「多分ね」と終焉に返す。
 目の前には、屋敷と比べれば小さい大きさの廃墟が堂々と聳え立っている。がら空きの窓からカーテンが揺れ動いているのを見かねて、男は小首を傾げる。リーリエはこの廃墟を目の前に足を止めて、ぼんやりとそれを見上げていた。恐らくノーチェがそこに訪れたことには間違いはないだろう。
 間違いはないのだが――。

「…………ここか?」
「……の……気がしたんだけど……」

 思わず問い掛けてみれば、女は悩ましげに首を傾げながら、うーんと唸る。本人も薄々気が付いているようで、どうしたものかと独り言を洩らしている。
 この廃墟には人の気配がないのを、リーリエの勘も囁いているのだろう。
 蒸し暑い夏の日に、彼は腹を空かせていないだろうか。――何気なくそう考えていると、思い立ったようにリーリエは屈んでいる。迷った末に実力に出るのが吉だと、勘が囁いたのだろうか。「鏡よ鏡よ鏡さん、」なんて陽気な歌を口ずさみながら、地面に――と言うよりは影に――向かって指を踊らせている。
 「鏡なんて無いんだがな」と言えば、女が「気分よ、気分」と言って、赤い紅の載った唇を小さく開く。

「あの子の足跡、この私に教えて頂戴な」

 ほんの少し、頭の中に浸透するような声色でリーリエが足元に語り掛ける。すると、リーリエの足元にある影が微かに蠢いた後、ゆっくりと地面から這い上がった。
 目はない。これと言って鼻のようなものも見当たらない。ただ黒いシルエットのようなものが、軽く尻尾を振る。――猫だ。

「…………それは」

 何気なくそう呟けば、リーリエは「魔女と言えば黒猫でしょう」と言った。足元に佇むそれは、にゃあと鳴く素振りもない。――しかし、どこか懐かしいような気がして、僅かに頬の筋肉が動く。

「……冗談よ。あんた達に道案内したい~って子が来てくれたの。感謝しなさいよね」

 終焉の様子を知ってか、女は口許に人差し指を当てて「いい子ね、この子」と言う。すっかり実体を失った猫はくるくると回った後、ふと方向を変えてこちらを振り向くような動作を見せる。「ついてこい」と言いたいのだろうが、その先には塀があるだけだった。
 猫はその塀に軽々と飛び乗って、再びリーリエと終焉を見る。二人が動かないのを見て、座り込んでからじっと見つめてきた。――気がする。
 終焉は特別何かを問題視しているわけではないが、傍らに添うリーリエが訝しげな顔をしていた。じっと猫を見つめ、うぅん、と額に手を押し当てる。猫だから、だろうか。道なき道を行くのは。女が登るには少々骨のいる高さに、「足跡じゃないじゃん」と遂に言葉を洩らした。

「……仕方があるまい。猫は猫なりの道で彼を追ったのだ」
「それでも普通に道案内してほしいんだけど?」
「よかったな、近道を教えてくれるそうだ」
「道ないんですけど」

 終焉の言葉に懸命に返すリーリエの言葉は、人間として正論としか言い様のないものだった。
 だが、相手は終焉と猫だ。時折常識も通じない相手でもあることを、女は知っている。「あんた本当に行くの?」なんて問えば、終焉は一歩足を踏み出して「当然だろう」と言葉を置いた。

「嫌なら帰ればいい。何となくで着くんだろう?」

 後は自分で何とかする。
 そう呟いた終焉の目は冗談を言っているようには思えなかった。
 このままでは本当に置き去りにされてしまう――観念したリーリエは肩で大きく息を吐きながら「ちょっと手伝ってほしいんだけど」と、終焉に声を掛けた。