――――そうやり取りをしたのが、数年も前になるというのに、応星は未だに鮮明に思い出せてしまう。
あの後の応星は早速工房へと向かって、頼まれたものと向き合った。割れてしまった槍の柄は再利用するには厳しいものがあったが、刃毀れしている程度で済めている穂に至っては直してやれば再び輝き、日の目を見ることができるだろう。姿は極力慣れ親しんだデザインにするつもりではあるが、重さやら長さやらは都度調整を挟まなければならなかった。
だが、龍尊である飲月君――――丹楓は、以前と同じようにふらりと現れては、応星の作業を見守ることが多かった。応星がうんうん唸っていると、「休憩を取らなくてもいいのか」と背後から声をかけてくるため、驚くことが殆どだ。一体いつの間にと周りを見れば、知らない間に応星の弟子のような立ち位置にいる仙舟人は、丹楓の存在に驚きつつ下手に声をかけられない状況をもどかしそうに見守っていた。
――――そう、彼らにとって丹楓は声をかけられないほど高貴な身分であり、自分たちはただの一般人に過ぎないのだ。気安く声をかけてしまえば、不敬だと言われて打ち首にでもされてもおかしくはなかった。
だからこそ、応星は誰かを責めることもなく、「取ればいいんだろ、取れば」と言い放った。初めこそは汚れる仕事だと、汗をかくからと遠ざけ、敬語にも気を遣っていたのだが。それを一切許さなかった丹楓は、応星が敬語を使う度にふて腐れたような表情を浮かべた。
お陰で断念せざるを得ない状況を作られ、応星は溜め息を吐いてありのままの姿で丹楓と接するようになった。その流れで重さやら何やらを調整していると、白珠までもふらりと現れて取り留めのない話をしたりしていた。
――――あまり気にも留めていなかったが、白珠と応星が揃っている場所に丹楓がいるという状況を見る仙舟人の視線が、いいものではないように見えた。彼女は不幸に付きまとわれた星槎落としであり、応星は傲慢な短命種。このように世間から弾かれた存在と龍尊が共にいるということは、彼らにとっていいものではないらしい。
だが、その輪に自ら足を運んでいるのは、他でもない龍尊である丹楓だ。彼らは何か言いたげな視線を向けるものの、決して口を挟むようなことはなかった。
その流れもあって、白珠を通じて鏡流や景元とも知り合うに至った。彼らも周りのような嫌悪感など覚えることもなく、丹楓相手にでさえ素で関わり合えるような性格だった。
特に鏡流は他の誰よりも強く、槍の出来を確かめるためにと何度も丹楓と手合わせをすることが多かった。その際は極力人が立ち寄らないようにしなければならないほど、被害が大きくなり、その度に槍の耐久力が甘いと何度も打ち直しを決行した。
時には丹楓と手を組んで鏡流に挑んでみたものの――――やはり、剣豪の名は伊達ではなく、勝ちを得ることは殆どなかった。
そうしている間に無事に彼の槍は仕上がり、丹楓自身も満足する出来になった。ただで折れるほど脆くなく、水圧に耐えられるほどしなやかで、且つ丹楓が持ったとて重すぎない完璧な仕上がりだ。穂先は修繕したけど、他のは新調したから慣れるまで時間がかかるかもしれない、と言ったが、丹楓はそれに満足したような表情で「構わない」と応星に告げた。丹楓の槍は予定よりも早く仕上がった、応星の傑作のひとつになった。
丹楓は自分が割り込んで依頼をしたことを気に留めていたようで、いたずらに時間を消費させてしまってすまなかった、と改めて応星に謝罪を溢す。自分の所為で応星の仕事に支障が出ているのではないかと心配しているような、しおらしい姿に応星は思わず白珠に振り返った。
余程気にかけていたんでしょうね、と彼女はぽつりと呟いて、何やら嬉しそうに応星と丹楓を見ている。恐らく彼女も丹楓が感情を表に出すことに対して、何らかの嬉しさを見出しているのだろう。
――――実際、応星は丹楓の槍を作りながらも他のことを並行してこなしてみせた。さすがに一人では賄いきれない部分は弟子たちに補ってもらい、一人でこなすものと遜色のないものを作り上げてきていた。――――寧ろ、彼の槍の製造を受けて以来、新しい発見があったほどで、応星の技術は日を追う事に増しているほどだ。
この事実に関して応星は丹楓からの謝罪を受けるほど、損はしていなかった。
――――だが、気にかけているというのなら、それなりの誠意を彼には見せてもらいたかった。
「そんなに気にしているんなら、折角だし祝い酒でも飲まないか? 金人港には美味い料理もあったろ? この五人で――――どうだ?」
「わあ! それは名案ですね、応星! あたしも常々この五人で行きたいと思っていたんですよ! お二人はいかがですか?」
「我は構わない。飲んだくらいで支障はないからな」
「私も平気だよ。師匠はあまり飲み過ぎないでくださいね……手が付けられなくなったら困りますので」
そう口々に返答をする四人を眺めて、応星は丹楓の言葉を待った。――――気が付けば応星を含めた五人は、周りから雲上の五騎士なんて呼ばれているようで、戦場に身を投じるときは大抵五人が揃っていることが多々あった。世間から弾かれている者同士、仲良くやれればという考えもあったが、単純に祝い酒を飲みたいという欲があったから応星はこの話を提案したものの――――丹楓からの返答は一向に返ってこなかった。
もしや、龍師たちがそれを許してはくれないのだろうか、と一抹の不安がよぎる。この頃にはもう、彼は堂々と龍師たちを振り切って応星の工房に姿を現すことが主となっていた。それが今更口を挟んでくるのかと懸念していると、丹楓はゆっくりと探していた言葉を見つけたように呟いた。
「…………余は、実は、金人港に行ったことがなくてだな……」
そんなに良いものなのか? と丹楓は応星に問いかけていた。いくら箱入りとはいえ、仙舟の大体は把握しているだろうと踏んでいた応星は、彼の言葉に脱帽して、一気に肩の力が抜ける。龍師たちが嫌がることはあるだろうとは予想していたものの、本当は丹楓自身が嫌と思っているのではないかと不安で仕方がなかった。
丹楓が実は金人港の料理を知らないという事実に、白珠は身を乗り出して「それは勿体ないですよ!」と声を張り上げる。折角だから皆で行きましょうと彼女は息巻いて、丹楓の手をぐいぐいと引っ張った。
その日の酒は一段と美味く、するすると喉の奥へと流れ込んでいった。次々と出てくる料理を白珠はニコニコと笑いながら食べ、鏡流と景元は自分のペースでそれぞれ突いている。応星も酒を飲みながら料理をつまみ、隣に座っている丹楓に「これとか美味いぞ」と定期的に皿を差し出して進める。その丹楓はといえば――――、興味深そうにそれを一瞥したあと、ちまちまと差し出された料理を口にしていた。
――――かわいい。
酒を呷っているせいか、応星が丹楓を見守る頃にはすっかり気持ちが落ち着いていて、感情にいくらか名前を付けることができていた。
丹楓は差し出された料理を嫌がっていることはないものの、慣れないその存在に箸を進める手が一向に速度を増さないようだ。あれだけ偉そうな態度を取るにも拘わらず、彼が料理を食べる口はあまりにも小さく、小鳥でも眺めているような心地だった。
けれど、応星は丹楓に向けている感情がそのように優しいものではないことは十分に理解していた。時折弟子たちと話をしている姿を見かける度に湧き出る不快感も、自分にだけ気を許しているような態度によって得られる高揚感も、丹楓なしでは味わえない感情だった。他の誰に抱くわけでもないそれに、応星は悩んで、悩んで――――これが恋と呼ばれるものであると、定義した。
鍛冶に人生を費やしてきたはずの応星が、他のものに気を取られてろくに鍛冶に没頭できないことが数回あった。その度に丹楓が「調子でも悪いのか」と声をかけてきて、「何でもない」と振り切ることで丹楓に気付かれずに済んでいる。
元より丹楓自身にも色恋の感覚があるのか定かではないが、気付かれて余計な気を遣われるよりはマシだった。
白珠や景元、鏡流は当然のように丹楓に向ける応星の感情には気が付いていて、不意にちょっかいをかけることがあったが、――――応星は彼に気持ちを告げることはなかった。丹楓に色恋の感覚があるかないかの以前に、丹楓と応星の立場はあまりにも違いすぎるのだ。彼はこの先何年、何百年も生きていられる持明族であるが、応星は長くて百年程度しか生きられない短命種。たとえ想いが実ったとしても、応星は丹楓を置いて逝くなど、考えたくもなかった。
だから応星は気持ちを伝えることはせず、隣でその姿を見守ることに徹していた。喜ばしいことに、丹楓は応星に十分気を許していて、多少の無茶振りも応えてくれるほどの信頼を築けていた。時折一緒に悪巧みをしたり、鱗淵境に連れて行ってもらったりして、二人でしか分からない会話だってできるようになっている。
ただの短命種の割には十分すぎるほどの幸運に恵まれていると、応星は自負していた。
応星は丹楓を気に入っているし、丹楓も応星をいたく気に入っている。――――そこに、一方的な感情が紛れ込んでいるとしても、口にしなければ関係は変わらなかった。
龍尊の唯一の悪友。――――応星は丹楓が目の届く範囲にいるときは気付かれない程度に、他の誰かが丹楓の魅力に気が付かないよう、手を回していた。
――――そうして己の感情を、欲を満たしているつもり、だった。
コトン、と応星の手から握っていた鎚が離される。熱を帯びて赤く彩られていた鉄はみるみるうちに冷めていき、応星が瞬きを一度する頃にはすっかり鉄くずのような色合いへと変わっている。
普段なら休憩だと言って離れている工房に、応星は気紛れで足を踏み入れ、たった一人で些細な小物を作っていた。武器にはならないが、考え事をするのには小物を作っていた方が捗るため、手持ち無沙汰でいることを極力避けているのだ。――――今回もまた、応星は丹楓の身の回りに置いておけるような装飾品を作ろうかと思っていたのだが、いい加減鉄製は華やかさが欠けていると気が付いた頃合いだった。
砂を使ったガラスはどうだろう、花瓶でも作って丹楓の仕事部屋にでも花を飾ってもらうのもありかもしれない――――なんて思っていた矢先、ふと工房の外から「龍尊様」の単語を聞いた。
龍尊様――――それは他の誰でもない丹楓の呼び名であり、仙舟は同盟を組んでいる持明族の飲月君を龍尊様と呼ぶことが多い。もっとも、彼を「丹楓」と気軽に呼んでいるのは、応星の他に景元と数が知れている。それは、暗に彼との仲の良さを周りに示しているようなもので。
――――そんな応星が耳にした龍尊にまつわる話は、応星の頭を硬いものでガツンと殴るほどの強い衝撃を彼に与えた。
――――いや、聞き間違いかもしれない……
そう思い、応星は余計な物音を立てないように、じっと姿勢を変えないまま聞き耳を立てる。幸いなことに、工房に応星がいるとは思ってもいないようで、声の主は驚愕の声を上げてから「何だって?」と問いかけるように声を張った。まるで驚きのあまり、もう一度話を聞かなければすんなりと受け入れられないというような声色だ。
かくいう応星もその一人で、もう一度聞かせてくれと言った声の主にそれとなく感謝の念を抱く。先程聞こえてきた話は気のせい、或いは聞き間違いであってくれ、と心の底から思っていた。
――――しかし。
「何だよ、いいか? よーく聞けよ? あのな……」
――――龍尊様が遂に婚儀を挙げるらしい。
「………………は……?」
先程応星が耳にした言葉を、彼は寸分の狂いもなく同じ口調で繰り返した。
「婚儀ってあれだ、仙舟同盟をより深めるために、代々受け継がれてきた伝統だろ」
「そうそう! 今代の龍尊様は、何故か頑なに首を縦に振らなかったんだけど、さすがに期間が空きすぎてるってことで、決定したみたいだぞ」
一体どこから仕入れてきた情報なんだよ、と話をしている仙舟人が訊ねた。彼はどうやらこの噂が仙舟全体に行き渡っていて、長楽天や金人港ではその話で持ちきりだという。その噂が人を伝い、遂には応星の耳にまで届いてしまったのだ。
仙舟同盟をより深めるために、仙舟は持明族の長である龍尊と婚儀を挙げる独自の風習があった。婚儀とは言うが、実際に式を挙げるような祝い事ではなく、静かに執り行われる儀式の一環だ。用意された意匠に身を包み、互いに向かい合って腕を絡め、用意された酒を飲む――――という儀式を行うだけのものだ。その大抵が当代の将軍と、飲月君が主役となって行われるという。
この手の話を応星は聞いたことはないが、応星はあくまで殊俗の民であり、仙舟人ではない。代々受け継がれてきたという伝統も、たった今初めて耳にしたのだ。
彼らの話によれば、その儀式は一連の流れを終えてたった一晩のみ寝食を共にすれば完結するもの。一般的に言う結婚や、一夜の話があるわけではないというが、どうにも例外が存在するらしい。
――――それが、先代の龍尊、雨別と将軍の関係だ。
どうやら先代の将軍は雨別に特別な意識を向けていたようで、儀式の後の一夜では彼から明確な誘いがあったのだという噂が上がっていた。龍尊である雨別も嫌悪感を抱いていたわけではないようで、婚儀の翌日には先日よりも一層仲を深めたような様子の二人が見受けられたという記録が残されている。
もしかしたら今回の婚儀もそうなるのかもな、と彼らは何も知らないまま期待に満ちた声色で話していた。彼らにとってその儀式は安泰を指し示す大切なもので、執り行うことで今代の龍尊と仙舟は決して裏切ることのない契りを交わすのと同等なのだろう。そうすればたとえ忌み者や壊滅の手先が襲ってきたとしても、彼らは手を取り合い、互いに助け合ってくれるはずだからだ。
――――けれど応星は、応星だけはその話を信じられなくて、そっと額に手を添える。
当代の龍尊は誰だったかと、分かりきって当然の思考に頭を割いた。当代の龍尊は、応星と親しく、気が付けば一番仲がいいとさえ言われているあの丹楓だ。龍師たちに嫌気が差しては気晴らしに工房に訪ねてくるほど、気紛れなあの彼だ。応星が漸く槍を作り上げたとき、「これで其方が作った槍で漸く戦えるようになるな」と少しばかり嬉しそうにしていたあの表情を、応星は今でもよく覚えている。
丹楓に「龍鱗をも貫くぞ」と言い放ったものの、丹楓を守るのは自分が作った武器であればいいと何度思ったことか。誰よりも感情が希薄ではあるが、長く付き合ってみれば何が好きで何が嫌いかなど判断が付くようになった。
丹楓が微笑んだあの表情を知るのは自分だけでいい――――最低でも四人だけで済めばまだ心に余裕が持てる。龍師たちが、将軍が知らないであろう丹楓の姿を見るのは酷く心地が好かった。
気が合うからと二人で月を眺めながら酒を酌み交わし、取り留めのない話で盛り上がったりもした。丹楓はいつも応星相手には素の態度で接してきていて、応星もそれに応えるよう砕けた態度を取り続けていた。――――そこにいくつかの恋心があるとしても、相手に伝わらなければ変わらない関係がずっと続くと思っていた。
――――それなのに突然、降って湧いた婚儀に応星は丹楓を取られかけてしまっている。
ただの儀式だと彼らは言うが、「ただの儀式」でさえ応星は丹楓を取られるのが嫌で仕方がなかった。復讐しか取り柄のない自分が、幼い頃から焦がれ、今では隣になくてはならないと認識しているほどだ。どれだけ自分を取り繕おうと「ガキだな」と自重しようが、胸の奥に湧き出てくる大きな不快感は拭える気がしなかった。
――――龍尊様が婚儀を挙げるらしい。
その言葉が嫌でも耳にこびりついて離れない。
「…………何で何も言ってくれないんだ」
応星はそう呟いて、一人陰の中で唇を強く噛み締めた。――――結局自分が何を遠ざけていたとしても、無駄に終わってしまうのだ。