穏やかな足取りで木々の間を歩く一人の男。若草を踏み締め、枝を避けていく最中にふと、空を見上げる。木々の隙間から零れ落ちてくる木漏れ日に、普通なら心地良さを覚えるはずだろう。――しかし、男はその木漏れ日を一身に受けながらぐっと顔を顰めた。まるで、忌々しいと言いたげな表情だ。
鮮血のように赤い右目。左目は黒い眼帯の下に隠され、その色を窺うことは許されない。極力肌の露出を避けるためと言わんばかりに着ている服の色は、殆が黒に染まっている。闇に溶け込むように、影と一体になるように、その服は他の色を許さなかった。
微かに止まりかけていた足を再び動かし、男はまた木々の間を歩く。その行く先には――ひとつ、音が聞こえていた。まるで何かに怯え、逃げ惑うように懸命に森の中を駆ける音だ。男はそれを追うように悠長に歩き、ゆっくりと、しかし確実に追い詰める。逃げ惑う獲物をゆっくりと追い詰め、機を窺うその様はまるで獣のようだった。
「はあ……っ、はあ……!」
走り回り荒くなった呼吸のまま逃げるのもまた一人の男。額や頬に汗を流し、忙しなく左右を見比べては唐突に後ろに振り返り、あてもなく右の方へと足を速める。真昼の時間帯だというのにも拘らず、鬱蒼としている森の中は薄暗い。時折ギャアギャアと鳴き声を上げながら飛び立つ鳥の存在や、ガサガサと枝葉を掠める獣の存在がいっそう恐怖心を掻き立ててくる。逃げている立場である所為か、各方向から得体の知れない視線を感じ続けていた。まるで音もなく監視されているようで、居心地が悪い。
額にかく汗が、体中から出てくる汗が気味悪いというのに、背筋を走るのは悪寒だけだった。逃げろ逃げろと本能が囁いてくる。足を止めたら最後だと、背中を押す声が聞こえてくる。この声は一体誰のものだったのか、――今となってはそれすらも分からない。
何故なら――自分を追ってきていたはずの黒い男が、音もなく突然目の前に現れたからだ。
「うわぁあっ!」
みっともなく声を上げ、目の前のそれは驚いた拍子に体勢を崩し、地面へと尻餅をつく。走ってきた跡に崩れ落ちた所為か、一度形を崩された土はぬかるみ、べしゃりと音を立てていた。――しかし、彼はそれに意識を向ける余裕もなく、突如として目の前に現れたそれに恐怖を露わにする。
カチカチと奥歯が小さく鳴らされた。止めようにも止められない体の震えが見て取れる。走り続けていた足は小刻みに震えて、逃げたがる彼の意思に反して立ち上がることも出来なかった。お陰で彼は、体を引きずるようにズルズルと、少しずつ懸命にそれから距離を離そうと試みていた。
――男はそれを、観察するようにじっと傍観していた。
ゆっくりと後退を選ぶ彼に対して、男は一歩足を踏み出す。すると、呼応するように木々が揺れ動き、木の葉がサアサアと音を立てる。白い雲が太陽を覆い隠した所為か、日が差していても薄暗い森の中が、より一層暗闇に包まれたような気がした。それらが男の恐ろしさを助長しているように見えて、『獲物』が小さく身震いする。懸命に距離を離そうとする彼の腹を、男が足蹴にするまでにそう時間はかからなかった。
男のつま先が彼の鳩尾を貫く。ド、と鈍い音と感触が男の足を伝ったが、男は表情を変えることはしなかった。彼は悲鳴を上げかけたが、鳩尾を狙われ、悲鳴だったものは呻き声へと変わる。内臓に響く鈍痛に彼は咳を込み、目尻に涙を浮かべていた。
「ど、どう、して……っ」
さっきまで姿が見えなかったのに。――そう言う彼の言葉に男は瞬きをひとつ。まだ話をする余裕があったのかと賞賛の言葉を贈ろうかと悩んだが、男はまだ彼をそこまで追い詰めていないことを思い出し、小さく溜め息を吐いた。小さく伏せられた瞳に長い睫が覆い被さる。
「…………ここは、俺の『領域』だからな」
今はまだ日が高く昇っているが。――そう言って男は鳩尾を踏み締めている足を軽く捻る。その上、獣たちがお前の行動を逐一報告してくれているんだ、と男は呟いた。彼に語りかけるというよりは、まるで独り言のように必要最低限の声量だ。呟きと同じ類いのそれに、彼は顔を顰める。
彼の言いたい言葉が、男にはよく分かった。人間の成せる技ではないと、有り得ないと言いたいのだろう。酷く歪められた小綺麗な顔は土や、木の枝によって作られた傷ばかりで、痛々しい見た目をしている。それに同情するわけではないが、男は落ち着きを手繰り寄せるよう、再び溜め息を吐いて、薄い唇をゆっくりと開いた。
「…………話をすることを、許可してやろう。何故……主の意向に背いた?」
ポツリと吐き出された男の呟きに、彼はぐっと息を呑んだ。男の口調は酷く落ち着いているように思えるが、その言葉ひとつひとつに確かな圧を感じるのだ。腹部に置いている足など、ただのお飾りで、本当に彼を押さえつけているのは男から放たれる威圧感だった。
「…………光栄、です。ボス」
苦し紛れに呟かれた言葉と共に、彼は眉間にシワを寄せながらも唇を開く。本当なら言葉も交わしたくないと言わんばかりの表情ではあるが、ボスと呼ばれた男はそれに意識を向けることもなく言葉に耳を傾けた。
「我々はただ、あなた方のやり方に、ついて行けなくなった……それだけです」
彼は薄ら苦笑を溢し、男に対して言葉を続けた。