――男はこの世界では「ボス」という役割を担っていた。生まれたときから持っていたものは、その役割に似合うほどの圧倒的な魔力と、クレーベルトという名前だけ。それ以外のものは持ち合わせておらず、故郷はおろか、血縁さえも何もなかった。そんな男に与えられた世界は彩り豊かで、人間の言う「現実」と全く遜色ないものだったのだ。
たとえそれが偽りの世界だとしても、男にとって――クレーベルトにとって、この世界が全てだった。
男に役割を与えた『主』たる存在は、とても気紛れな性格で、この世界を生み出してからは男に全てを託したのだ。ただひとつ、どのような場所にしたいかを、夢を見る少女のように語り、男に「そういう世界を作ってほしい」と言った。男にとって『主』は飼い主のようなもので、「貴方がそう望むのなら」と返事ひとつで了承した。
そうして出来上がったこの世界で、クレーベルトは自分の役割を全うし続けているのだ。自分が誰にも愛されることがない体質としてもなお、『主』の望みを叶えられるのなら、何だって構わないとさえ思っていた。
――自分が人間を信用してしまうこと以外を除けば、全てが順調だったのだ。
愛されないという体質は、裏切りという形で男に牙を向けてきた。血縁のいないクレーベルトは彼らを身内同然のように扱い、可愛がってきた。時には人間のようにお茶会なんてものを嗜み、時には身内を庇って片腕を失ったりもした。絶対的な存在である男が「完璧」でなくなってから、裏切られることが増え、知らず知らずのうちに胸を抉られるような痛みを覚えることが多くなった。
――そんなとき、自分の傍を絶えず寄り添うある男に、突然の告白を受けたのだ。
愛を知らない男が無意識のうちに愛を求めていた結果、一番近くにいる部下に男は気が付かなかった。
彼は初めて顔を合わせたときから妙にクレーベルトに関わろうとする節があり、男はそれを「理由は不明だが何故か懐いてくれている存在」という認識をしていた。彼は酷く好戦的で、定期的に手を焼くことがあるものの、指示を出せばそれに従う姿を見せていた。彼の態度は従順な犬というよりは、誰かに従うことに慣れてきた猛犬のようだった。
男は従順な犬が好きだった。だからこそ、彼のことも取り分け気に入っていたのだが――他でもない彼に告白を受けることになるなど、思いもしていなかった。
初めて与えられるそれに、男は動揺しながらも好奇心から訊ねたことがある。一体いつからそういった感情を抱いていたのかと。男は人間の見た目をしているが、人間の感情を理解しているかと問われれば、答えることができない。その欠けている部分を少しでも補おうと、男は彼の想いを理解しようと努力をした。
片腕を失った頃か、と男は訊いた。完璧でもない弱り切ったボスに、同情でもしたのかと。そう思わせてくるほど、彼はクレーベルトに親身になっていた。男が片腕を失ったのは自分の所為だと言わんばかりに歯を食い縛り、何度も後悔する姿を男は見守っていた。
しかし、彼は男の問いに小さく首を左右に振って「違う」と答える。
ならばお前に縋り付いたみっともない夜の頃か、と男は問いかけた。すっかり弱り切った男は、彼の赴くままに体を委ね、身を任せたことがある。その体を許した結果として、そういった感情を抱くようになったのかと、男は訊いた。
だが、それでも彼は否定してみせる。――そうして一呼吸置いたあとに男の目を見つめて、「一目惚れだった」と答えた。初めて見たときからずっと好きだったのだと、彼は少しばかり気恥ずかしそうに告げた。
ボスの言葉で言うなら愛しているのだと、そう言って――男は驚きのあまり逃亡した記憶がある。
あれだけ求めていたというのに、いざ与えられるとなると自分の感情が暴れ回り、落ち着きが取り戻せなくなることを、男は初めて知った。彼のそれは、男が周りに告げていた「愛」などとは異なる質感を持っていて、自分のそれがいかに浅はかだったのかを自覚する。
彼はノーチェといった。ノーチェも周りの人間と同じように招待を受けて、この世界へとやって来た人間だ。唯一周りと異なる点を挙げるとするのなら、彼は自らの意志で殺人に手を染め、強さを求めているという点だろう。そのことが認められ、彼は名のある実力者としてボスの傍らで付き従う役割を与えられている。
――その所為か、クレーベルトと初めて対峙したときのノーチェは、決して従順とは言えないただの狂犬でしかなかった。自分より弱いやつに従うつもりはないと言い張り、他数人がいる目の前でクレーベルトに手合わせを挑んだのだ。
結果として彼は惨敗、その上で男に従うことになったのだが、クレーベルトとしては思いもよらない結果に落ち着くことになった。何せ彼に対する興味関心はなかったにも等しいのに、上手く感情を揺さぶられ、その実力を試すばかりか彼を半殺しにまでしてしまったのだ。
一目惚れだと告げていた彼としても、初対面の手合わせは一か八かの賭けでしかなかったのだろう。そこで男が応じなければ、彼は儚い片想いを拗らせたまま、男に従うか従わないかの瀬戸際にいたに違いない。その点を考慮すれば、衝動的に手をあげてしまったのは間違いではなかったのだろう、とクレーベルトは自分を納得させる。
まさか自分の体質を乗り越えてまで、男の愛に応えようとするとは思いもしなかったのだが――。
その例外的存在のことを思い出して、男は何の気なしに空を見上げる。つい先程まで白い雲が太陽を覆い隠していたはずなのに、木々の隙間からは日光が差し込んでいるのが見えた。鬱蒼と生い茂る森の中を、微かに照らしている太陽光は、動植物にとってはあって当然の、当たり前のものなのだろう。
しかし、男はその零れ落ちてくる日差しを忌々しげに見つめ、太陽を避けるようにフードをかぶり直す。クレーベルトにとって日光は鋭利な刃物と同じだった。日光を避け続けた白い肌に、針を刺すような痛みが迸る。あたかもこの世に拒絶されているような感覚に、男はそうっと足を動かし、木陰へと逃げ込んだ。影に呑まれ、沈んでいった反逆者の姿はもう、見る影もない。
自分に付き従う部下たちの統率の他、男は自分を、『主』を裏切る人間の始末を担っていた。決して部下に気が付かれることのないように、内密に行っているそれに、微かながらも疲労感を覚えてしまう。自分に忠実な部下に押しつけようにも、彼らは皆別の世界からやって来た人間たちだ。生まれや境遇など考慮もせず、死んだか殺したかの判断基準によって招待を受けた人間たちだ。万が一、男が「裏切り者」と定めた人間が、身内にとってかけがえのない存在であった場合――、彼らが背負う罪悪感は計り知れないものとなるだろう。
それを避けるべく、男は誰に頼ることもなく自らの意志で裏切り者を始末し続けてきた。老若男女、年齢問わず平等な死を与えることが、男にとっての慈悲でもある。そうして始末された人間に来世があるかどうかの確約はできないものの、自分を慕ってくれる身内が傷付くよりは幾分気持ちが軽かった。
「…………不味い……」
裏切りを働いた人間を糧として、男は今日も傷を背負う。口の中に広がる鉄の味が、クレーベルトの味覚を刺激した。お世辞にも「美味い」とは言えない味わいに、男はそっと口元に手を添える。胸の奥に詰まる蟠りが男の不快感を助長させた。
たった一人、始末するだけでこの様だ。
だからこそ――、男は身内に同士の始末をさせないよう、たった一人で傷を背負い続けるのだった。