────丹楓が目を覚ましてからの翌日、彼の屋敷は大きな騒ぎに包まれた。龍師たちは脱鱗させる話を取り消し、側仕えの彼女はほとほとと涙を流しながら丹楓に頭を垂れたのだという。丹楓は皆に迷惑をかけたことに謝罪をして、弱った体を調える時間がほしいと言った。さすがに眠り続けて筋力が落ちた体では、一日中立って歩くことなどが困難であるという説明の元、話は通った。
その足で彼は将軍の下へ赴き、頭を下げる。婚儀を先延ばしにし続けてしまったこと、それから相手を代えてほしいことを申し出た。あまりにも自分勝手なのは百も承知だと丹楓は話を続けようとしたものの、対する将軍がそれを遮って首を縦に振る。元より相手を代えることを提示したのは他でもない自分であると、非は丹楓にはないと言っていた。
その話を応星は丹楓の隣で、肩を持ちながら聞いていた。周りの仙舟人からは不敬だと、失礼だと言われたものの、応星はそれらを鼻で笑って無視をし続けていた。将軍にはそのような態度はとってはいないが、周りの仙舟人には「悔しかったら龍尊様にでも申し出たらどうだ?」と煽り、辺りを賑やかせる。その顔色は先日よりは落ち着いているものの、まだ少しだけ陰があった。
応星の容態が戻ること、それから丹楓の体の調子がよくなること────それらを条件とし、婚儀は十四日後を目安となった。その間は療養を中心として、日常生活を送ることが大前提だと将軍は二人に言う。
それらを受け入れ、その場を後にした直後、白珠が丹楓の元へと飛び込んでいった。心配したんですよ、と耳と尻尾が垂れた彼女は鼻をすする。もう起きないかと思ってましたと泣きじゃくる白珠の頭を撫でて、丹楓は「すまなかった」と言った。
丹楓にとって白珠も大切な仲間だ。鏡流も景元も応星も、一人でも欠けてしまえば丹楓の仲間は散り散りになってしまう。────それは白珠にとっても同じことで、彼女は頻りに泣いていた。普段気丈に振る舞っている分、不安が一気に押し寄せて決壊してしまったのだろう。応星と丹楓はどうにか機嫌を良くさせようと、いくつもの案を提示した。体調が戻ったらまた食事に行くこと、また五人で集まって話をすること────そんな当たり前の集まりを約束して、今日から休むようにと念を押された。
「応星はちゃんと飲月に好きって言うんですよ!」
「それを本人がいる目の前で言うか?」
「安心するといい、余は既に十分すぎるほど分かっている」
「おい」
それはそれとして当日にははっきりと伝えてもらうがな、なんてやり取りをして、応星はただ一人羞恥心に駆られる。いくら知られているとしても、いざ人前でそのことを口にされては気が気でなかった。応星をからかうようなやり取りは景元や鏡流までも巻き込み、輪を広げていく。まるで一連の騒動は応星が発端だと言いたげなそれに、彼は観念して肩を落とした。
────それから婚儀の日取りが決まるまで、療養を挟みつつ業務に専念する日々が続いた。応星は相変わらず自分の体を顧みない日常を送っていたため、定期的に白珠や丹楓が工房に訪ねることがあった。特に婚儀のために療養をとっているはずの丹楓は、側仕えの彼女と共に応星の元へやって来ては、わざわざ応星に水をかぶせて作業を中断させるほどだ。
余の相手がこんなに顔色の悪い男では話にならん、と彼は一言呟いて、惜しげもなく背を翻しその場を後にする。側仕えの持明族はやはり応星にほんのり睨みを利かせてから、彼の後をついて行った。彼女が丹楓と同行する理由を応星は知りもしないが、悪い知らせではないことは確かだ。大抵の龍師や持明族は丹楓が応星の元へ向かうのを止めるが、彼女は止めようと口を挟んだこともない。ただ、納得がいかないような視線は応星へと投げているが────、早く離れろと口を出されたことはなかった。
水浸しにされた応星は否が応でも作業を中断せざるを得ず、溜め息を吐きながら何度も休息を取るに至った。自分たちが何を言ってもやめてくれないと嘆いていた弟子たちは、丹楓の訪問に呆気に取られてから、応星の作業の邪魔をしてくれることを喜んでいたらしい。食事も入浴も準備ができていますよ、と声をかけられる度、応星は「お前たちは俺の世話係か?」と何度も会話をしたことがある。
そうして時折酒を呷り、何度かの夜を越えたところで、遂にその日がやって来た。
場所は人里離れた洞天。詳細は伏せられているものの、仙舟全体の景観と全く相違のない景色の良さに、応星は感嘆の息を洩らす。他人に邪魔をされることのないよう、木々が辺りを取り囲み、広い庭には見慣れない花が咲いている。青、紫、赤────ぽつぽつと景色を彩るように咲いている花に、風情を感じていた。近くには池があり、蓮の花が咲き誇っている。この花は丹楓によく似合うだろうなと彼は思いながら、案内された広い屋敷でぽつんと一人取り残されていた。
着慣れない赤い色の衣装を身に纏い、応星はただ景色を眺める。婚儀の流れは側仕えの彼女から口頭で説明されたが、詳しい段取りを教えてもらえることはなかった。彼女が言うには「飲月君が長ったらしい流れを省略したいと申し出ました」とのことで、実際のやり取りがどうなっているのか、応星には皆目見当もつかない。当の本人は準備に時間がかかっているようで、応星は何をするわけでもなく空を眺める。
青い空だった。白い雲がゆっくりと空を泳いで、日差しは温かい。これは夜もいい天気になりそうだと思い、応星はフッと小さく笑う。久し振りに丹楓と二人きりで杯を交わすのも悪くはないだろう。それぞれ他愛ない話で盛り上がって、以前のような親友に戻るのもいいかもしれない。
────そう、一人で考えているとき、応星の背後の扉からひとつ、物音が聞こえてきた。音もなく開かれた扉の向こうから聞こえたのは、足音がふたつ。ここにいるのは丹楓と、その側仕えのみで。他の持明族を始めとする仙舟人たちは、応星が相手なら手を貸したくはないと言って来なかった。
それは好都合だと応星は笑い、丹楓は腕を組む。元々粛々と行われる儀式だったからこそ最少人数で構わないと彼は言っていた。
その丹楓が、応星を待たせてから凡そ三十分後に漸くやって来た。応星は一言「遅いぞ」と言うべく、その来訪を心待ちにしていた子供宛らに振り返って見やる。
「丹────」
「すまない、待たせてしまったな」
どうしてもこの姿を披露すると言って聞かなくて。────そう申し訳なさそうに告げる丹楓の姿に、応星はかけようと思っていた言葉を失ってしまう。遅いぞと言いかけた応星の唇は僅かに開閉を繰り返して、出てくるのは言葉にもならない吐息だけだった。
応星と対になっているであろう赤い衣装に身を包んだ丹楓が、そっと部屋の敷居を跨いで応星の元へと歩み寄ってくる。赤い色に一層引き立てられている彼の黒い髪も、白い肌も、普段目にするものよりも遥かに綺麗で。過度な装飾で着飾っているわけでもないのに輝いて見える丹楓の姿に、応星は自分の顔が熱くなるのを感じた。
先程まで平常を保っていた心拍がどんどん上がっていくのが分かる。まるで、胸の奥で誰かが鎚を振るっているかのように、全身に心臓の鼓動が行き渡った。彼のその容姿に応星は目を奪われていて、様々な音が、景色が霞んで見えていく。眼下にまでやって来た丹楓は、応星を見上げると────フッと小さく微笑んだ。
ドクン、とより一層深く、強く心臓が叫びを上げる。遠くで彼女が「私は失礼致します」と言っていたが、応星にははっきりと聞こえていなかった。
「────其方、随分と顔色が良くなった。衣装も良く似合っているぞ。すっかり男前が戻ってきたな」
丹楓は揶揄うような口調で応星にそう告げているが、彼に見惚れている応星は「ああ……」と生返事をすることしかできずにいる。応星の審美眼がしっかりと理解しているのだ。自分が認識する上で、これ以上に見目麗しいものは存在しないと。その姿を余すことなく網膜に焼き付けておかなければ、この先ずっと後悔してしまいそうだった。
応星の生返事をどう受け取ったのかは分からないが、丹楓は少しばかり唇を尖らせて応星にそうっと手を伸ばす。ツン、と彼の人差し指が応星の頬を軽く突いた。それに応星は肩を震わせ、目を丸くする。
「熟れた果実のように赤いが……そんなに余に見惚れたか?」
彼はあくまで冗談を口にしているようで、その青い瞳には揶揄いの色が見て取れた。
────だからこそ応星はその手を取り、「ああ」と反撃をする。
「凄く綺麗だ……お前ほどの綺麗な人を、他に見たことがない」
「なっ……」
手を握り真っ直ぐに丹楓の顔を見つめて褒めてくる応星の言葉を聞くや否や、丹楓は驚いたように目を丸くして視線を逸らす。彼も平常心を保っていたようだが、やはり応星の真っ直ぐな言葉は羞恥心を掻き立ててくるようだ。頬ではなく耳を赤く染めた丹楓は、眉間にシワを寄せて「何を言って……」なんて呟いている。よく見ると丹楓はこれでもかと身なりを整えているようで、唇にはほんのり潤いが見受けられた。
龍尊様は化粧もものにするのか、と思わず応星は吐息を洩らす。婚儀の相手を代えられてよかった、と心の底から思っていた。このように綺麗に着飾った丹楓を、知らない誰かに見られてしまう可能性が大きかった思うと、心の奥底に黒い何かが渦巻くような気がしたのだ。
────彼は仙舟人にお披露目されてしまったと言っていたが、たった一人相手に見られるよりは遥かにマシだと、安堵の息を吐く。少なくとも今この瞬間だけは、丹楓は応星のものであるのだ。
「と、とにかく……其方には最後の仕上げをしてもらわなければならない」
「仕上げ?」
コホンと咳払いをひとつ。丹楓の言葉にパッと手を離した応星は、首を傾げて彼を見る。ここまで綺麗に仕上げられた丹楓に、最後の手を加える何かがあっただろうかと応星は懸命に頭を捻った。何度見ても丹楓には赤い色もよく似合うなと思うばかりで、応星には心当たりが存在しない。
そんな応星に丹楓は溜め息を洩らして、懐から小箱を取り出した。
「忘れたわけではないだろう」
そう言って開かれた小箱の中に、片割れを失ったタッセルピアスが一人で横たわっている。それは持ち主の耳に飾られるのを今か今かと待ち侘びているようで、応星は思わず「あ」と言葉を洩らした。この屋敷に来る前に忘れずに、と念を押され、一足先につけていた自分のピアスを何気なくそっと触れる。これが、互いは互いのものであるという証明になるのだ。
ずい、と差し出されたそれを応星は手に取り、徐に丹楓の左耳へと差し出していく。彼は目を閉じ、そのときをじっと待っているようだ。その表情に口付けをしてやりたい衝動を抑え込みながら、応星は小さな針を向ける。傷跡ひとつもないそれに、ピアスはやめておけば良かったかも、と呟けば、丹楓は「早く」と応星を急かした。
白い耳たぶに針を突き刺すと、微かに丹楓の肩が震える。一瞬の痛みが過ぎたのち、彼は閉じていた目を開き、「似合うか?」と応星に問いかけた。
「ああ…………よく似合ってる」
ほんの少し震えていた指先を丹楓から離し、応星は彼の体を徐に抱き締める。体中に走る感動と、幸福感をどうすればいいのか分からなくて、思わず彼の体を抱き寄せてしまった。復讐に身を預けていた分、幸せに慣れない応星は大きく息を吐き、「これも夢か?」と何気なく呟く。そんな応星の腕の中で丹楓はくつくつと笑い、「これが夢だったら余も同じ夢を見ているな」と言った。