────夢を見た。恐ろしく現実味を帯びていて、一瞬でも本当に夢かどうかの判断すらつかないほどだった。青い空に飛び交う機械鳥、賑わいのある金人港。その中で呆然と立ち尽くす応星は、目の前にいるそれに感情という感情を掻き乱されてしまう感覚に陥っていた。
為す術もなく気が付けば婚儀の当日を迎えてしまった応星は、諦めも悪く丹楓がいるであろう屋敷の近くを彷徨いていた。婚儀当日だというのに龍師たちは何やら慌ただしく駆け回っていて、何かしらの会話を数回繰り返しているのが見える。生憎狐族でもない短命種の応星には、彼らが言っていることなど聞き取れやしなかった。
呆れながらも応星に付いてきた景元は、「何だか少しおかしいな」と独り言のように呟きを洩らしている。それに返事をするほどの余裕もない応星は、組んでいる腕の中で指先を頻りにトントンとリズムを刻むしかできずにいた。彼は大した返事を求めているわけではないのだろう。応星の肩を叩き、「待っていてもあまり期待はしない方がいいと思うよ」と言葉をかける。彼も彼で応星が邪魔をしたいと思っているわけではないと分かっているだろうが、龍師たちがそう易々と丹楓に会わせてくれるはずもないと知っているのだ。
────それでも。
「……分かってる。けど、誤解のひとつくらい解かせてくれなきゃ、気が済まない」
自分が蒔いた種は自分で回収しなければ気が済まなかったのだ。
肩に置かれた手をパシリと払い、応星は景元を睨む。丹楓は白珠と応星の噂を聞いて以来、あまり話をしようとはしなくなった。意識しているわけではなかったが、意を決して話しかけようとした丹楓を遮り、応星は白珠へと約束を取り付けてしまった。それが、付き合っているかもしれないという噂を肯定しているようなものだと認識されてしまったが故に、避けられる事態に陥ってしまったのだ。理由はどうであれ、応星は丹楓が抱いた誤解を解いて、今までと同じように気軽に接してほしいという旨の話をしたかった。
この婚儀という風習のせいで、応星個人としては今まで通りの接し方など、できる気はしなかったが。
「だからと言って、こんな出待ちみたいな真似は──……」
景元は払われた手を軽くさすって、溜め息混じりに苦言を呈そうとした。こんな真似はまた龍師たちに色々と言われるのがオチだよ、なんて言おうとしたのだろう。そして、その事実は応星自身が痛いほど分かっていることで、何度も言われるのは癪だった。
────しかし、景元は言葉を詰まらせたあと、まじまじと応星の顔を見つめてくる。気が抜けそうになるほど緩やかな瞳が、じろじろと顔を見つめてくるのにはさすがの応星も気が引けた。思わず半歩身を引きながら「何だ」と問いかければ、景元は少しばかり心配そうな顔付きで「顔色が悪くないかい?」と応星に告げる。
「君が徹夜をしがちなのは今に始まったことじゃないが、最後に会った数日前よりも隈ができているような気が……」
心なしか窶れているような気もする、と言って景元は眉を八の字に下げる。彼は応星が短命種であり、もしかしたら今すぐにでも天寿を全うしてしまうのではないかと不安がっているようだ。────実際、寝食を蔑ろにしていれば早すぎる死、というものが存在するわけだが、生憎応星にはその気はなかった。
代わりに彼は景元の問いに答えるように「最近夢見が悪くてな」と告げる。夢見が悪くて到底寝ていられないと言えば、それこそ丹楓のことを待ち伏せている場合ではないと言った。睡眠はどれだけ寿命が長い種族だとしても欠かせない欲求のひとつだ。それを蔑ろにすれば、いつの日か簡単に死んでしまうかもしれないということを懸命に語られ、応星は居心地が悪くなってくる。
「俺だって馬鹿じゃない。睡眠を取ることは大事だってことくらい、分かってる」
「なら尚更寝るべきだと思わないかい」
もしも私が丹楓の立場だったら、久し振りに見る君の顔色がそんなに悪かったら心配してしまうけれど。
────そう言って景元は応星に少しでも休息をとるべきだと勧めてくる。万が一丹楓が来たら起こしてあげると言っていて、応星は彼のその奇妙な優しさに不信感さえ覚えてしまった。記憶の中の景元はもう少し生意気だったような気が、なんて言えば、彼は呆れながら「私も応星の心配くらいはするよ」と言われてしまう。
つまり、景元すらも休みをとるように勧めてくるほど、顔色が悪いということだ。
景元の説得に応星はぐっと言葉を詰まらせ、思わず手を握り締める。
分かっているのだ、無駄な足掻きをしようとしていることくらい。誤解を解いて、婚儀に対する意識が少しでも変わってくれたら、などという下心があることくらい。何とか融通を利かせてもらい、相手を自分に代えてもらえたら、など思っていることくらい。────睡眠が体にとってとても重要なものであることくらい、分かっているのだ。
「…………でも駄目だ、駄目なんだ」
前髪をくしゃくしゃと掻き分け、応星はふう、と深く息を吐く。実際目を閉じればすぐにでも眠りに落ちてしまいたくなるほどの眠気はあるが、応星は何とか意識を保っていた。
────夢を見るのだ。恐ろしく現実味を帯びている夢を。
心地の良いほどの晴天で、誰の邪魔もされないまま気ままに酒を呷る。夜空に浮かぶ月は柔らかく微笑み、星々は瞬き、頬を撫でる風は現実か夢かの境目を曖昧にしてくる。その中で応星はふと疑問を抱くのだ。────自分は今どこにいて、誰と酒を飲んでいるのか。恐る恐る隣を見れば、手と手が触れ合うほどの距離に丹楓がいて、応星と目が合うと決まって柔らかく微笑みを浮かべる。月明かりのように優しいそれに、堪らず胸の奥が高鳴ってはおかしいと理性が働きかけるのだ。
何せ丹楓はここ暫く応星と顔を合わせることがなかった。婚儀の準備があるから忙しいものだと頭の片隅では理解しているのだが、どうにも避けられている気がしてならない。直接丹楓の元へ赴こうにも、応星は龍師たちからは到底良く思われていないのだ。門前払いされることは目に見えていて、丹楓に会う術も、約束を取り付けることもできやしない。
────それなのに何故丹楓が目の前にいるのかと、応星は底知れない疑問の海に投げ出されるのだ。
応星が酒を呷る手を止めて呆然と丹楓を見つめる度、彼は小首を傾げて不思議そうに応星を見上げる。夜の中では丹楓の瞳は深海のように深い青色をしているように見えた。吸い込まれそうなほどのそれに加え、月明かりを受けて煌々と輝くツノがどんな宝石よりも瞬いて見える。時折気紛れに出してくる龍の尾はツノと同じ色合いをしていて、懐いてくるように足下に巻き付いてくる。
それらがやたらと懐かしく思えると同時に、これは夢だとはっきり気が付くのだ。
夢なのに尻尾が足に巻き付く感触は現実のものと酷似している。頬を撫でる風の生温かさも、手に持っている酒器の質感も、身に覚えのあるものばかりで。こんなにもはっきりとした夢を夢だと一言で済ませて良いものなのかと、不安が募った。例えば自分は知らない間に奇妙な術でもかけられていて、少しずつ心身を蝕まれているのかもしれない。自分の失態を皮切りに、仙舟全土に広がって、最終的には丹楓さえも巻き込んでしまうかもしれない。────そう思うと、背筋に悪寒が走ったようにゾッとした。
「応星」
応星が不安になっている最中に丹楓の姿をした何かは小さく応星の名前を呼んだ。そのまま空いている片手で応星の肩に触れようとするものだから、彼は咄嗟にその手を弾いてしまう。パシン、と乾いた音が鳴って、酒器が地面へ転がっていった。手元から落ちたそれは、よく見れば地面に数個の欠片を残している。恐らくヒビが入っただろう。
それを気に留める余裕もなく、丹楓を凝視していれば、彼は弾かれた手をそっと自分の胸元へ戻す。その表情は信頼を寄せている大切な仲間に裏切られたのと同じように、衝撃と悲しみで塗れていた。────今にも泣き出しそうな表情だ。
その表情に応星の中にある良心がズキリと音を立てる。夢の中とはいえ、好いている相手の手を払った上に傷付けてしまったのだ。自分がしでかしたことで泣きそうな顔をしてしまった丹楓を見て、思わず罪悪感が芽生えてしまう。もしもこれが現実で、丹楓本人に同じことをしていたら、応星は頭を抱えたくなってしまっていただろう。
「何故…………其方はこれを望んでいるのではないのか……?」
────それでも辛うじて自分自身を保てられたのは、他でもない目の前にいる丹楓のお陰だった。
すり、と丹楓は弾かれた手をさすって、寂しそうに応星に語る。
確かにこれは夢であり、この夢は応星の願いを叶えているだけに過ぎない。その中では自分と応星は恋仲で、邪魔をされることは一切ないと。心穏やかに酒を飲み交わせるのも、自分が傍にいられるのも応星が望んでいるからだと。
そう丹楓が語る口調はあまりにも真剣で、嘘を吐いているようには見えなかった。確かに応星は丹楓とまた気軽に酒を飲める間柄に戻りたいと思っていて、どうにか誤解を解ければと思っていたが────恋人関係というものにまでなっているとは思わなかった。
思わずキッと睨みを利かせれば、それは一度目を見開いてから少しだけ落ち込むように顔を伏せる。夢の中だというのに、目の前の丹楓にはしっかりと自我が存在しているように見えた。心なしか、耳まで僅かに垂れているような気さえして、応星の手指が反射的に動く。目一杯抱き締めて「悪かった」と許しを請いたくなる衝動を抑え続けていると、────丹楓は小さく息を整えながら徐に顔を上げた。
凜とした目付き、隙のない佇まい。つい先程手を払われたなど気にも留めないと言いたげな様子に、思わず応星の審美眼が働く。月明かりを受けた彼は何よりも美しくて、儚かった。
「……望んでるとしても、それはお前相手じゃない。俺は現実の丹楓が好きなんだ」
夢の中ならどうとでもなるなんていう発想は好きじゃない。────そう言って何とか自分の衝動を掻き消してみせれば、丹楓は両腕を組み「そうか」と呟いた。初めて会った頃と同じように、少しの表情の変化も見せず、人形のような顔付きだ。
「其方ははっきりと所有の認識があったな」
「…………?」
彼は納得したように頷いて、独り言を洩らす。そうして再び顔を上げると、「生憎ではあるが」と応星に向かって口を開く。
「余もこうして易々と引き返すことはできないのだ」