「……お前は何故、俺のために働こうとするんだ」
隻腕になった同情からか、と男は何気なく呟いた。俺を愛していると宣うのも、片腕を失って自暴自棄になったことに対する同情から来たのか、と男は問いかけた。――それは、クレーベルトにとって純粋な疑問であり、ハッキリとさせておきたい悩みでもある。同情から来るのであれば、今すぐにでもやめておけと助言をして距離を取ろうと思っていたのだ。
そうすることで、彼は余計な罪悪感を抱かずに済むだろう。――そう、考えての発言だった。
それがノーチェの自尊心を傷付け、怒りを刺激する言葉になるなど思ってもいなかった。
――不意にガシャン、と耳を劈くような陶器が割れる音を聞いた。クレーベルトは伏せていた視線をノーチェに移し、音の発生源を見る。陶器が割れる音は彼の手によって発せられていた。白地に金の装飾が施されているカップは、ソーサーと共に砕け、カップの中に残っていたであろう紅茶がテーブルの上に広がっている。用意されている菓子の数々が水浸しになることはなかったものの、紅茶はゆっくりとテーブルの縁まで歩みを進め――、そして音もなく溢れていった。
ノーチェにとって疑われることはこの上ない侮辱に等しいのだろう。そう冷静に判断するクレーベルトに対し、彼は怒りを滲ませつつも何とか理性を保とうと静かに唇を開く。
「言いたいことはそれだけか」
――だが、彼の怒りは言葉の端々から強く滲み出ていた。
ほんの少し吹いた風が、男の頬を撫でる。その空気には彼の殺気のようなものが漂っていて、頬にチクリと針を刺したような痛みが迸る。同様ではない感情が、ノーチェの体を支配するように、彼の瞳にある瞳孔は微かに開いているように見えた。
元よりノーチェは感情的になりやすい性格だ。先程までは男の身を案ずるべく、優しさを前面に出していただけに過ぎない。男の言葉ひとつで手のひらを返したかのように苛立ちを見せる様は、やはり従順をかぶった狂犬そのものだった。
しかし、彼が怒りを露わにする気持ちも男には理解できる。自分が信じているものを疑われたとき、クレーベルトもノーチェと同じように怒りを露わにするだろう。
それでも好奇心はとめられなかったのだ。
「お前が俺を好いていると言ったのは、俺が片腕を失ってからだ。同情でなければ一体何だと言う。同情でなければ何だ……不完全な体になった男を憐れむ以外、一体何があるというのだ」
彼の怒りに臆することもなく、クレーベルトは自分の考えを述べていった。その間、男は自分の胸の奥が詰まり、息苦しさを感じて気分が悪くて仕方がなかった。自分の考えを述べているだけだとしても、万が一それが事実であったら――と、自身が不安に駆られているのだと気が付いたのは、全ての言葉を言い切ってからだった。残された左手の指先から血の気が失せ、初めから白い肌が更に青白くなっていったような錯覚さえする。全身から温度という温度がなくなってから、男は言葉を撤回したくなってしまった。
万が一、万が一にでもノーチェが自分を「愛している」と言ったのが本当に同情で、本心でなければ、どうしようかと――。
そんな不安に駆られている最中、不意に彼の手が伸びて男の頬に添えられる。
「本当に同情だと思ってんのか? 俺は、同情で男に手を出すような人間じゃねえよ」
そんな風に弱味に漬け込むようなクズじゃない。
彼はそう言って席を立ち、クレーベルトの頬を両手で包み始める。そして漸く男は自分の体温が極限まで落ちていることに気が付いて、目を丸くした。
クレーベルトの体質は嫌われることだけに留まらない。感情の起伏――主に不安に駆られたときに顕著に表れる、体温の低下もあった。彼はそれに気が付いていて、自分の体温を分け与えてやるように男の頬を両手で包む。そして、流れるような仕草で額に、頬に――そして唇にキスを落として、じっとクレーベルトの顔を見た。その表情は先程の怒りなどどこにもなく、男の身を案ずる、一人の青年の顔付きだった。
「……誰かに、見られていたら……」
「誰も見てねえよ。近くには誰もいない、ベルが一番よく分かってんだろ?」
クレーベルトの懸念を余所に、ノーチェは一度だけ男の体を抱き寄せる。「そんな不安そうな顔すんなよ」と彼が言ったことで、クレーベルトは自分の不安が顔に出てしまったことを察した。感情を隠すことは得意ではあるが、どうやらノーチェは男の感情を読むことに慣れてしまったようだ。赤子をあやすように頭を撫でてから、彼は男の黒い髪を指で梳く。
そうして彼は言った。
「前にも言ったと思うけど、一目惚れだよ」
――初めはノーチェにも理解ができなかった。初めて会った黒い男は、酷く小綺麗な顔立ちをしていて、女にも負けないような顔付きだった。思えば一番に好きになったのは顔かもしれない、と彼は言う。
けれど、クレーベルトは何に対しても無関心で、目の前に現れたノーチェにすらも興味がなさそうに見えた。赤い片目は一度だけその姿を認識するや否や、すぐにどこか遠くを眺めてしまい、顔合わせの時間すらも男は無駄だと思っていることを知る。
そんな男の気を引くにはどうすればいい――そう思ってノーチェが提案したのは、互いの実力を確かめることだった。
結果は上々。戦闘面で言えばノーチェは半殺しにまで追いやられ、意識が朦朧としていたところまでは覚えている。その霞む視界で、男が呆れたように溜め息を吐き、酔狂な人間がいるのだなとノーチェに対して興味を抱いてくれたため、勝ち負けなど些細な問題でしかなかった。このときの彼にとっての敗北とは、認識もされずに命を手放すこと。目が覚めてクレーベルトがノーチェという存在を認めたと分かった瞬間、彼は勝利を確信したのだ。
――ただ、問題だったのはその妙な感情の正体が分からなかったこと。
今の今までノーチェは特殊な環境下にもある自分の一族のために手を汚すか、気紛れに女に手を出して遊ぶか、友人たちと交流するかの暮らしを送っていた。その間に愛だの恋だのと語られることが何度もあったが、誰か一人を好きになったこともないノーチェはその感情が理解できなかった。
いつか知らない間に愛に落ち、家庭を築くことがあるのかと他人事のように思っていたのだが――、その「いつか」がまさか男相手に対してやって来るとは思わなかったのだ。
ノーチェは女が好きだ。女の柔らかい四肢が、胴体が、一人の男として好きだ。だから、クレーベルトに抱く感情は何かの間違いであればいいと何度も葛藤し続けてきたのだという。少しでも男が誰かと親しげにすれば、吐き気を催すほどの嫉妬に見舞われ、男がノーチェを頼ればこの上ない喜びが体を支配した。――それでも恋そのものを知らないノーチェが、男に対する感情を「恋」であると定義するには、あまりにも時間が足りなさすぎたのだ。
自分の経験と、他人からの助言を元に、ノーチェがクレーベルトを愛してしまっていると気が付いた頃。壮絶な争いが起こり、ボス自らが前線に立ち、体の一部を犠牲にするという事件が起こる。目の前で弧を描き、遠くへと飛ばされた男の腕に本人は見向きもせず、全ての力を振るって辺りを一掃した。流石はボスという役割を与えられた存在だと、誰も彼もが虫の息になりながらも賞賛していたが、ノーチェだけは絶望感を胸に抱き続けていた。
――もしも自分にもっと力があれば、こんなことにはならなかっただろうに。
魔力を掻き集めるべく、長い睡眠に身を投じていた男が目を覚ましたとき、ノーチェはその姿を見て決意をした。
他の誰でもない、自分がこの男を愛してやるのだと。