俺の部下の愛が重い2

 ――残された洋菓子を、ノーチェはひとつまみ。柔らかく噛めばすぐに崩れるクッキーを噛み砕き、少しばかり不機嫌そうに椅子に座り直す。自分が壊したティーカップとソーサーの包みを一瞥して、不満から来る溜め息を洩らした。

「駄目か……」

 まだ駄目なのか。そう言ってノーチェは自分の手のひらを眺める。つい先程取っていて男の手を、彼は無意識のうちに使い物にならなくさせようとしていた。実際、男に止められていなければそうするつもりだった。男は自分の知らない場所で、自分の知らない何かを遂行している、その度に顔色が悪くなっているのを、クレーベルトは自覚していないのだろう。
 白い肌が普段よりも青白く見えて仕方がなかった。ろくに眠れていない人間の特徴とよく似た顔色だ。クレーベルトはそれを慣れた様子で無表情という仮面で上手く誤魔化しているが、ノーチェは出会ってから今までクレーベルトの顔をよく見てきたのだ。男の顔に惚れ込んだという事実が大きいが、男の感情を読めるようになりたいと思ってのことだった。
 たとえば苛立ちを抱けば、表情よりも目が物語る。男の赤い瞳は少しだけ細められ、何に対しても興味が無さそうにどこか遠くを見つめてしまう。或いは、人間を人間とも思わないような視線を投げかけてくる。
 悲しみを抱けば、普段よりも表情が暗く見えて、返答が遅くなる。遠くを見つめる癖は変わらずだが、何かを考え込むような仕草は取り分け目立っているように思える。

 ――そういう事実が相まって、ノーチェは確信していた。ここ数日のクレーベルトは様子がおかしいと。仄かに香る錆びた鉄の匂い、落ち込んだかのような青白い顔色。疑り深い性格は初めて会った頃と何ら変わりはないが――、一番身近にいると自負しているノーチェの存在すらも、時折疑ってくる。
 まるで自分自身を守るために向けられている疑いだ。その結果として彼は自身の愛を疑われ、そのことが確かに癪に障り、陶器をひとつ無駄にしてしまった。このカップは、クレーベルトが息抜きによく使う食器のうちのひとつだ。気が付けば同席することが多くなったノーチェのために用意されることがあるそれを、彼は衝動のままに台無しにしてしまったのだ。
 そのことに対してひとつの反省を抱きつつ、ノーチェはちらりと空を見やる。空は決まってクレーベルトが落ち込んだり、不幸に見舞われたりする度に晴れ晴れとしてきた。初めは気のせいかと思っていたものの、確信めいた感情を抱き始めたのは、男が片腕を失ってからだ。

 ――片腕が弧を描き、遠くへと飛ばされていくのをただ傍観するしかなかったあの惨劇から数年。その合間に起きた男の異常性を、彼は今もなお鮮明に覚えている。
 薄暗い男の自室。必要最低限の物しかない殺風景な部屋。締め切った窓から差し込む月明かりで辛うじて見えた男の部屋は、いくつもの本が散乱して、気休め程度に備わっていた花瓶は叩き壊されていた。明かりが灯らない部屋はこんなにも薄暗いものなのかと、最早感嘆の息すらも吐いた記憶がある。
 その部屋の中心で、男は何もかもが憎くて仕方ないと言わんばかりにノーチェを強く睨み付けていた。その日も昼間はよく晴れていて、心地の良い晴天と言えるものだった。ボスの体調が良ければ気分転換に誘ってみようかと思っていた彼は、その日初めて男に何の余裕もないのだと知った。
 何せクレーベルトは隠すのが何よりも上手かったのだ。日中では普段と何ら変わりのない表情で、淡々と己の役割を全うしていた。誰も彼もが男の身を案じているのを、問題ないの一言で片付けては、不意に姿を眩ませることが多くなった。以前から男はどこかへと赴いて、気が付けば戻ってくることがあった所為か、ノーチェはその事実を気にも留めようとはしなかったのだ。
 ――その結果、男は荒れ果て、幾度となく自らの命を絶とうとしていることに気が付かなかった。
 クレーベルトの部屋は血の匂いが充満していた。日中の男からはしなかった鮮血の香りだ。それが、男のものであると知って、ノーチェは咄嗟にその体に掴みかかる。男は自分自身の治癒に長けていて、傷跡という傷跡は見受けられなかった。代わりに、失った片腕だけはいつまでも空のままだったのだ。
 体から切り離され、失ったものは戻ることはない。――それを、男は自分の体で自覚した。いくら傷を作ろうとも、血液を巡る魔力は傷を塞ぎ、死を免れようと奮闘する。しかし、空いた右腕だけは傷口を塞ぐばかりで、何もなかった。
 ズキリと心が痛みを訴えかける。男はボスという立場にいながらも、身内をその身で守るほど、心優しい一面があった。そんな男が自暴自棄になり、自らを傷付けるほど追い詰められているとは露ほども思わなかったのだ。
 誰も彼もが心地良いと宣う晴天は、男の不幸を嘲笑っているように思えて仕方がなかった。
 そうしてノーチェが罪悪感を抱いている頃、不意に男が顔を俯かせながら呟く。
 ――夢を見るのだと言った。誰も彼もが自分を裏切り、敵意を向けて殺しに来るのだと。男が守ってきた身内が全員敵意を露わにして、憔悴しきった男に刃を向ける。それをクレーベルトはボスとして真っ向から受け止め、華々しく散ろうと笑ってやった。
 笑って――不意に自分は誰からも愛されることがないのだと、何もかもが虚しくて仕方がなくなったのだ。

「――……幻滅したか」

 そう、男が静かに呟くのが聞こえた。
 ノーチェが言葉に詰まっていると、クレーベルトがゆっくりと顔を上げて、薄く笑みを浮かべながらも涙を流している。その顔は、全てを諦めているようにも見えた。初めて見るその表情にノーチェが言葉を失ったままでいると、何故男がそうノーチェに問いかけたのか、分かったような気がした。
 彼は誰よりも男に懐いていた。自覚するまではハッキリとはしなかったが、彼は男の傍にいたがり、誰よりも頼られていたかった。――そのことを男は知っていて、彼が懐いているのは自分が実力で認めさせた存在だからと思っていたからだろう。
 そんなボスは今、片腕を失い、憔悴しきっている。完璧ではなくなり、誰もが言う「理想のボス」を体現できなくなっている。――それについて、クレーベルトはノーチェに問うのだ。
 ――俺に失望したか、と。

「ちが……っ」

 このとき初めてノーチェは、クレーベルトが自分を慕っている理由が「ボスだから」ということに気が付いた。ボスだから率先して傍にいて、ボスだから指示に従う。自分よりも強い者に従う純粋な上下関係に、ノーチェは咄嗟に否定を口にしかけた。
 自分が付き従っているのは、あくまでクレーベルトという存在が好ましく思っているからだと。――お前を愛しているからだと、言いかけて、ふと言葉に詰まる。
 ――そう、愛しているのだ。ノーチェは初めてクレーベルトと顔を合わせて以来、どうしようもないほど愛しく思っているのだ。その事実を認めようとしなかったのは、自分が今まで女に現を抜かしていたからであって、突然男を好きになるという状況を認めたくはなかったからだった。

 好きなのだ、どうしようもないほど。完璧を体現していたボスの姿も、自暴自棄になって一人の人間のように崩れ落ちている姿も。クレーベルトという生き物が何よりも愛しくて仕方がないのだと、気が付いてしまった。

 ――しかし、それを今告げたとしても、弱味に漬け込んでしまうような気がして気に食わなかった。彼は咄嗟に開き、否定しかけた言葉を呑み込んで、脳裏で懸命に慰めの言葉を探す。「そんなはずがない」「俺はお前に失望なんかしない」――そう言いかけて、突然クレーベルトがノーチェの体に寄りかかってきたのだ。
 縋るように彼の服に手をかけて、震える声音で、確かに言う。

「俺を、独りにしないでくれ…………」

 その言葉が、ノーチェが懸命に掻き集めた建前を、理性を崩すのは簡単だった。