「そう決めたのがあんまりにも遅かったからな。同情だと思われんのも無理ないか」
そう言ってからノーチェは苦笑を洩らし、男の三つ編みが解けてしまったと慌てて手入れをする。毎朝欠かさず髪を梳かしてから、クレーベルトは丁寧に三つ編みで髪をまとめていた。「クレーベルトの髪は綺麗だねぇ」と少女の声色で『主』が褒めてくれた日から、男はもう一度褒めてもらいたいがために手入れを欠かさなかった。
結局褒めてもらえたのはその一度きりではあるものの、男はそれを諦めることはしなかった。
よし、と一息吐いてノーチェが三つ編みを直したとき、男は「この顔が好きなのか」と何気なく問いかける。女によく似た肌の質感ではあるが、頬には紫の模様が刻まれている。幾度となく人間を見てきた際、クレーベルトは自分の体が多少なりとも普通とはかけ離れているものなのだと理解した。
そして、男が男に惚れるのも一般的ではないということも。
ノーチェが望むのなら、男はこの顔を見せ続けるのも、今の関係を壊してしまうのも構わないと思っている。それが、彼の言う「愛」に等しいものなのかは分からないが、彼の願いを叶えてやりたいと思っていることは確かだった。
男の呟きを聞いてからノーチェはクレーベルトから手を離し、席に座る。そのまま両手を組んでじっと男の顔を見つめていた。その表情が場の空気に合わないほど酷く真剣で、クレーベルトは思わず眉根を顰める。時間にして凡そ数秒ではあったが、クレーベルトの顔を眺めたノーチェは重々しい雰囲気でゆっくりと口を開いた。
「すっげぇ好き」
「…………そうか」
真面目な話をしている――そう言いたげな雰囲気に呑まれつつ、男は置いていたカップを手に取り、紅茶を飲む。すっかり冷めてしまって冷えたそれは、少しばかり味気がなく、男は思わず口をへの字に曲げてしまった。彼は終始真面目ではあるが、クレーベルトはどうしても理解ができなかった。
自分の体質は遺憾なく発揮されるものだ。動物たちが男に恐怖心を抱こうとしないのは、あくまでクレーベルトが野生の動物たちに対しては敵意を抱いていないから。人間とは異なり、善悪で全てを決めているわけではない彼らを、下手に刺激することは男の意志に反する。――必要なとき、必要なタイミングで本性を見せれば、彼らは大人しく男の言うことを聞いてくれるのだから、それで十分なのだ。そうしてやがて動物すらも男の元から離れることになろうとも、構わないとさえ思っていたのだ。
――しかし彼は、ノーチェだけはどれほど凄もうが相変わらずクレーベルトの傍にいることが主だった。自暴自棄になったある日、全てに嫌気が差して何もかもを信用できなくなった夜を越えたあとも、彼は飽きもせずクレーベルトを慕ってくれていた。
最早一種の洗脳を受けているのではないかとすら疑ってしまう。
クレーベルトが冷めた紅茶を苦々しい顔で飲んでいたときも、彼は男の顔を見つめながらクッキーを口にした。男が手ずから用意した洋菓子を、彼は何の了承も得ずに口へと運んでいる。恐らく彼は、許しを得ようが得なかろうが、クレーベルトが許してくれるものだと十分に知っているからだろう。たとえそれを裏返すように男が怒りを露わにしたとしても、ノーチェは反省をするだけで傍を離れようとはしないはずだ。
一体何がそこまで彼を引き留めているのか、男は分からなかった。
もしかしたら彼は知らず知らずのうちに頭をいじられ、ボスの懐に入り込み、内側から何もかもを台無しにする計画を持っているかもしれない。その計画を、ノーチェが企てたものではないとしても、その計画は着々と歩みを進めているのだ。何せクレーベルトはノーチェのことを心底信用しているのだ。どれほど弱味を見せようとも、理想を体現できなかろうとも、彼は幻滅したりもせず男の傍を離れることはしなかった。
ここまでされて信用できないほど、落ちぶれているわけでもない男は、苦々しくも歯痒いと言いたげに表情を微かに歪める。信用はしているが、ノーチェが未だに自分を裏切らないという自信はどこにもなかった。「愛している」という彼の言葉がどこまで本物なのかを頻りに疑っていた。
彼は女と何度も関係を持ったことのある人間だ。今もなおそうであれば逃げ道くらいは確保しておいてやろうと、男は口を開く。「お前、女と関係を持っているのではないのか」と。暗に「こんなところで油を売っている暇などないのではないか」――そう言ったつもりで。ノーチェの様子を横目で窺えば、彼はクッキーを口にしつつ何かを考える仕草を取ってから「それなぁ」と言う。
「やめた」
「……やめた?」
「やめたよ。だって不誠実だろ? それに……そんなんじゃお前に信じてもらえそうになかったからな」
他にも色々理由はあるんだけど。――彼はそう言いながら自分が台無しにしたカップを丁寧に集め、いつから持っているのかも分からないハンカチの上にカラカラと音を立てながら置いていく。それをそのまま軽く包んで「弁償しないとな」と反省の言葉を吐いていた。
彼はクレーベルトに信じてもらいたいがために女との関係を断ち切ったのだと言い張る。その決断が、慣れていた自分の体にどれほどのストレスを与えていたかも計り知れない。――それでもノーチェは、ボスの信頼を勝ち取るためなら何だってする、と言いたげに「満足か?」と言った。その言葉の真意を汲み取ることはできなかったが、クレーベルトは一度だけ吐息を洩らしてから「酔狂だ」と呟く。
「お前は俺のために習慣を捨てたというのか。愛しているからと?」
呆れたように男がそう言えば、ノーチェは首を縦に振って「愛してるから」と言い張った。
「こうでもしないとお前、ろくに信用してくれないだろ? それに無茶するし」
彼は男の呆れに気が付いていながらも、それが正しいことだと言いたげに苦笑を洩らしながら告げる。自分の知り得ない場所でクレーベルトが神経を摩耗していること。ボスとしての役割を担っているからこそ、誰にも言えないことのひとつやふたつがあるのだろうと。そうして過去のように自暴自棄になってしまえば、ノーチェはまた後悔すると確信めいた言葉を紡いでいた。
それは、彼の憶測ではなく確かにやって来る未来のひとつなのだろう。実際にクレーベルトは裏切り者を屠る役目を、誰にも言わずに自ら全うし続けている。そうしている間に胸の奥から刺されるような痛みを覚えて、数日は頭の働きが鈍くなることを自覚している。
――それでも。男はノーチェにこの役割を押しつける気はなかった。
「……無茶をするのは俺だけではないと思うが?」
「うっ……それは……まあ……つい…………」
彼の腕に生々しく残る切り傷を見かねて、男は片眉を上げながら微かにノーチェを睨む。すると、彼は痛いところを突かれたと言わんばかりに肩を震わせ、そそくさと両腕を隠した。好戦的な性格とは酷く厄介なもので、人によって使う力が異なる以上、体を犠牲にしなければならないことがある。彼の場合は自らの血液を使った魔法が特徴的だ。そのために自分の体を傷付けることが必要不可欠で、彼の性格も相まって貧血で倒れることが少なくはない。
その迎えを誰が行っているのか、明白にしてやろうかと男が告げれば、ノーチェは気まずそうに視線を泳がせる。クレーベルトは何度も忠告をした。人間は脆く、大量の出血で死に至ることがあるのだから気を付けろ、と。――その忠告を頭の片隅に追いやって、限界まで傷を負う目の前の人間に、体がどうこう言われるのは癪だった。
そのことを指摘してみれば、彼は反論する余地もないと言うように肩を窄める。反省の色が見え隠れしているが、実際に戦闘に赴けば彼は体のこともすっかり忘れてまた平気で無理をするのだろう。そうして迎えに行く未来が男には見えていた。
ノーチェからもらったチョコレートを頬張りながら、男は残っている洋菓子を食べ進めていく。いくら息抜きの時間を設けているとはいえ、男には未だやるべきことが数多く残っているのだ。体を撫でる柔らかな風、黙っていれば自ずと寄り添ってくる生き物たち――それらが静かに、男へと告げ口をする。反逆の種子が再び芽を出し、花を咲かせようと企んでいるのだ。クレーベルトはそれを自然から、影から覗き、見聞きを繰り返していた。
どれだけ内密にしようとも、獲物は捕食者から逃れられやしないのだ。男はそれを暴き、裏切り者を根絶やしにするために、再び無表情で顔色を隠す。そうして完璧を体現すべく席を立てば――、不意にノーチェが口を開いたのだ。
「なあ、俺にできることがあれば言ってくれよ」
俺はお前の役に立ちたい。――そう言ってノーチェは席を立つ男の手を取って、自分の指を軽く絡める。おおよそ人の体温があるとは思えない体に、ノーチェの温かな体温が移った。彼はクレーベルトが何をしているのかなど知りもしないはずだが、時折何かを探ろうとする視線を感じることがある。夜の瞳がどこかへと向かおうとする男の姿を捉えていた。その瞳に映る自分の表情が、ほんの少しだけ強張っているように見えるのは、クレーベルトの錯覚だろうか。
指先が軽く絡まっているだけだというのに、ノーチェの手が男を逃がさないと言うようにキツく絡まっているような気さえする。足は蔦が絡まったかのように動きが鈍くなり、緊張がクレーベルトの体を支配していた。
――時々、ノーチェは何もかもを台無しにしてしまいそうな雰囲気を醸し出してくる。男が身内のことを想って、自分だけが傷付いている現状を、根本から崩してきそうな――。
「――…………なら、お前は俺が頼めば、親しい者すらも殺せると言うのか」
――その妙な感覚に気圧されて、クレーベルトは無意識のうちに言葉を紡いでしまっていた。自分が好きで、愛しているものならば、どんな願いも叶えようとするのかと。たとえばこの世界に来る前から親しくして、仲の良い友人と呼べるような人間を、一目見て好きだと思ってしまった生き物が願えば、その手を汚してくれるのかと。
彼は人間だ。いくら人を殺めてきたからといっても、人間としていくつもの感情を抱えて生きている。幼い頃から親しくしてきた友人や、こちらに来てからできた気の合う友達の何人かはいることだろう。それらを「殺せ」と男が命じたところで、彼がそれに従い殺めてくるなど、到底考えられなかった。――寧ろ、心のどこかではそうであってほしいと願っている自分が確かにいた。
クレーベルトの気持ちに従うよう、ノーチェは男の問いに一度だけ驚いたように目を丸くした。彼は駄目元で男に頼ってほしいと言っていたようだが、実際に頼られるとなると返答に困ったかのように小さく顔を俯かせる。結局は出任せだったのかとほんの少しだけ落胆して、掴まれている手を離そうとする。出任せだとしても、クレーベルトはノーチェにそんなことをさせようとは思っていなかった。
手を離し、後片付けをしてからまた自分の仕事を再開する――その流れを作るべく、男は視線を食器に移したときだった。
「――殺してやろうか」
――不意にノーチェの声が空を切って男の耳に届く。離れかけた手を彼は掴み直し、俯かせていた顔を上げてクレーベルトを見上げた。驚いた拍子に見た彼の目は、何よりも仄暗く、クレーベルト以外のものをその瞳に映していないようにすらも見える。
男はノーチェに殺しを頼むつもりなど微塵もなかった。しかし、彼は男の意志を気にも留めずに言うのだ。
「お前がそう望むんなら叶えてやるよ。誰がいい? 誰でもいいぜ」
「まさか……正気か?」
「正気も何も……俺はお前が好きだから従ってるだけだぜ? だから――」
ギリ、と掴まれている手に力が込められたようで、左手に小さな痛みが走る。
ノーチェは特殊な一族の一人だ。話を聞くに、彼の一族は魔力に長けたものと、物理に長けたものがいるという。ノーチェはそのうちの物理に長けている方で、掴まれている手が使い物にならなくなりそうなほどの力が込められている。彼はそれに気が付いていないようで、男の左手は折れんばかりに悲鳴を上げているのだ。
このままでは残されている手すらも使い物にならなくなる――そう気が付いたクレーベルトは咄嗟に右腕を動かし、言葉を続けようとするノーチェの額に手を添える。
そして。
「――ってぇ!」
――バチンッ、と額を指先で弾く音と共にノーチェが咄嗟に自分の額に手を当てて離れるのを男は確認した。
行きすぎた行動に出る飼い犬の躾をするのは、飼い主の役目。今はノーチェの主人は自分なのだからと、クレーベルトは呆れながらも「反省したか」と問う。額に手を当てて目尻に涙を浮かべるノーチェは、その言葉の意味が理解できないようで「何が」と男に訊いていた。その目は――先程の狂気染みた色を含んではいなかった。
分からないならそれでいい。そう言いながら男は軽く手を擦り、自分の手に異常がないのを確認する。万が一にでも怪我を負えば、罪悪感に駆られるのは他でもないノーチェなのだ。それだけを避けるべく、クレーベルトはある種の強硬手段に出て、彼の動きを牽制した。何も理解していないノーチェではあるが、手を出されるほどの何かをしたのだと自分なりに解釈しているようで、「悪かった」と呟いている。その姿を見るだけでふと、頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが――男は黙ってその衝動を呑み込み、踵を返した。
「反省しているなら後片付けをしておいてくれ」
「それ、片付けを俺に押しつけてるだけじゃ……まあいいか」
ボスは忙しいんだもんな。彼はそう言ってからそれ以上の言葉を続けようとはしなかった。
ノーチェは時折無意識に男の動きを制限しようとする節が見受けられる。彼にそういった自覚はなく、クレーベルトが勝手に呆れて全てを丸く収めるのが殆どだ。これが、ノーチェのいう「愛」から来るものだとすれば、自分の行動は間違っているのではないかと、男は時折不安に駆られてしまう。ノーチェのことは愛している。――だが、それが彼の言う愛と全く同じであるかと訊かれれば、クレーベルトは返答に困ってしまうだろう。
ノーチェが誰かを愛することを知らなかったのと同じように、クレーベルトもまた誰かを本当の意味で愛することを知りもしないのだ。
「――…………そう言えば……あいつは何を言おうとしていたんだろうか」
お茶会に抜擢していた木陰から離れ、数分歩いてからふと、クレーベルトは口を開く。つい先程ノーチェに動きを止められたとき、彼はまだ何かを言おうとしていた。その言葉の続きが少しばかり気になって、男は歩くのが疎かになる。好きだから従っているだけ、だから――そう、呟かれた言葉の続きをクレーベルトは数分だけ考えていたが、一度だけ瞬きをしてから首を左右に振った。
誰かが考えていることが、他人という立場である自分が考えたところで時間の無駄だ。
言葉の続きを考えることをやめて、男はコートのポケットに忍ばせていた手袋を両手にはめる。日の光を徹底的に遮るべく、顔以外の露出を避け、フードを目深にかぶった。空を見上げれば太陽が意気揚々と青空を、大地を照らしている。まるで、男に対して裏切りを働く人間たちを賞賛するかのように。
男はそれに――舌打ちを溢して視線を逸らした。
憎しみが湧く、嫌悪が湧く。苛立ちと苦しみを携えて、クレーベルトは影の向こうへと消えていくのだ。