────根も葉もない噂であることは百も承知だった。応星や白珠から聞いている互いの話は、どちらも家族に向けるような親愛の情であると聞いていたからだ。怪我をすれば身を案じ、祝い事があればいの一番に祝いに行く────そういう間柄であると事前に聞いていた。
だが、最近の応星は何故だか少し、冷たいような印象があった。本人は意図していないことではあるだろうが、応星が何故か避けているような気さえした。普段のように話しかけてみようとすれば、妙に体を強張らせてから、無理をして笑みを作る。彼はきっと、無意識下でそれをやってのけていたのだろう。
何かを隠していて、それを白珠にだけ打ち明けている。────その事実がどうしようもなく丹楓は悔しかった。応星の一番の友人は自分であると自負していた。悪巧みも酒盛りも、自分が一番であるという気持ちが揺るがなかった。
────だが、所詮友人は友人だ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「お勤めご苦労様でした。本日の流れは以上となります」
この後は十分な休息を、などと長ったらしく定型文を言う龍師たちの言葉を聞き流し、丹楓は自分にあてがわれた個室へと向かう。屋敷の長い廊下を歩き、側仕えに「休みたいから誰も入れるな」と言えば、それは深々と頭を下げて承知した。
個室の扉を開いて視界に入るのは、殺風景だった広い部屋。机と、いくつかの書物。そして寝具しかなかった鳥かごのような部屋だった。────そこに、応星が何故か贈り物と称してくれた装飾品の数々が部屋の一角に寄せられている。その一角は、丹楓にとっては特別な区画で、誰も触れないようにと自ら手入れを行うことが常だった。
白地に蓮の絵が施された花瓶にはいつも花を生けた。撃雲は応星に習った通りに手入れをし続けたが、いつも応星が手入れした方が綺麗だと思った。部屋を飾るだけの装飾品は、龍師たちの目に写したくないからといつも隅の方で煌々と輝いていた。普段愛用している酒器は、応星が使ってくれと直々に作ってくれた特注品だ。
それらを眺め、ぼうっとしていることが激務を終えた丹楓の癒やしだった。彼は今頃どうしているだろうか、と想いを馳せ、空いた隙間時間に彼の工房へ赴く────そうして互いに鬱憤を晴らして、また頑張ろうと気合いを入れ直す時間を丹楓は大切にしていた。
────その習慣を、丹楓は一切行うことはなく、近くに座ってぼんやりと贈り物を眺めるだけ。いつからか来なくなった贈り物の数々は、最近は少し埃をかぶっているように見えた。
そうして不意に、自分の目尻から涙が溢れるのを実感していた。
婚儀までは時間がなかった。丹楓が下らない伝統などで一夜を共にするなどもってのほかだと言って、断り続けたのが原因だ。そのような伝統に則らずとも、仙舟の民の安全は守ると龍師たちに言い張り、決して首を縦に振ることはなかった。その理由は単純に伝統に則っていることが気に食わないことだと称していたが、相手である将軍は丹楓が断り続ける原因が、近頃有名な百冶の応星にあると気が付いていた。
誰もが知っている。持明族の長である飲月君は、短命種にご執心だと。それが気に食わない龍師たちは応星に立場の違いを分からせるためにと、口煩く婚儀の話を持ち出していた。貴方が了承すれば仙舟人も安心するのですよ、と説得じみたものも投げられたことだってある。
────それでも丹楓は首を縦に振らなかった。知っているのなら尚更分かるだろう、と言って頻りに拒絶を繰り返した。
いつの頃からかはすっかり忘れてしまったのだが、丹楓は自分が応星に惹かれているのだと自覚した。応星は優しい。幼少期の頃はキラキラと輝く藤紫の瞳をじっとこちらへ向けてきていたが、今では丹楓を愛しむような瞳で見てくることが殆どだった。危険が伴う場所には当然のようにピタリとくっついていたし、街中では誰かしらを牽制するように肩を組んだりもしていた。「丹楓の隣は俺のものだ」と言わんばかりのそれに、丹楓自身も満更ではなかったのだ。
丹楓にとっては遥かに短い生命の輝きを、一分一秒も惜しむことなく瞬かせている。じっと観察していた鍛冶真っ只中の応星は、何よりも楽しそうな表情で鎚を振っていた。鉄が打ち付けられる金属の音は小煩かったが、それでも龍師たちの小言よりは断然良かった。汗だくになった応星が丹楓を見つけると、少年のような表情で「丹楓!」だなんて言うものだから、たまらなく愛しい気持ちが溢れていた。
────それと同時に、応星が自分の知らない仙舟人と会話をしていることが、何よりも不満で仕方がなかった。応星の一番は余だというのに、と傲慢とも思える思考が働く度、応星の性格が移ったのかと不思議に思っていた。
いつの日か書物を漁ったとき、恋というものを学んだ。要約すると、何でもないときに意中の人を思い浮かべているのなら、それは恋であると記されていた。
丹楓は感情が希薄だ。白珠が何度も「笑ってください」と言うものの、幼少の頃から感情を表に出すことが許されていなかった丹楓は、笑い方が分からなかった。水を鏡に見立ててくっと口の端を持ち上げるものの、白珠や景元、応星のようには笑えなかった。
────それでも応星は、丹楓の無表情の中に潜んでいる感情を、見事に言い当てられた。不満なことがあったときは欠かさず「今日は随分と不機嫌だな?」と顔色を窺って、茶菓子を出すことが決まっている。彼の弟子はふしぎをそうに首を傾げて指示に従う様子を見るに、彼らは丹楓の感情を汲み取れないのだろう。
────嬉しかった。応星だけが自分を見てくれているようで。この贈り物も、実は応星も少なからず丹楓に気があって、わざわざくれているのではないかと何度も考えた。────応星からの贈り物が唐突に途絶えるまで、毎日毎日彼のことを想っていた。
そのときだった。龍師たちから婚儀を急いでほしいと言われたのは。
どうやら一部の仙舟人からの反感が強く、今代で持明族は同盟をやめるのでは、と妙な噂が立っているようだ。そのようなことは成り得ない、と一刻も早く世間に知らしめたかったのだ。────結局この婚儀も粛々と行われるため、誰の目にも触れることはないというのに。そして、丹楓が決して首を縦に振らないと知っているはずなのに。
その事実に対策を打ってきた龍師は腹を括るようにぐっと歯を食い縛り、丹楓に思い切って提案をする。これは、将軍が直々に提案したことであり、我々はあまり気乗りしないのですが────と前置きを置いてから、まるで腹を刺されたかのように苦々しい顔で丹楓に言った。
「貴方様はお相手が将軍様であることが、気に食わないのでしょう……」
「……そういうわけではないのだが…………」
本当に、本当にそういう理由ではないのだが。話を円滑に進めるため、そういうことでいい、と言ってから丹楓は続きを待った。
「あれが……あれが本当に、何の称号もなければ我々もここまで妥協することはなかったのですが」
「勿体ぶっていないで早く話せ」
「────婚儀の相手を、あの短命種にすることが可能です……」
あれは一応仙舟で百冶の称号を得た人間です。ただの短命種で、仙舟の民でもありませんが、百冶という称号により、一時的に仙舟の民であると認められます。
これでも首を縦に振りませんか。────そう言って龍師は丹楓の目を見た。ここまできて彼は嘘を吐き、丹楓を騙す度胸などあるはずもない龍師だ。万が一に丹楓に嘘を吐き、反感を買えば結果は脱鱗であると本人も分かっているはずだ。
それでも丹楓にこの提案をしてきたということは、本人は本気で代替えを提示してきたのだろう。それも、将軍の提案とのことだ。将軍にとっても民の反感は痛手になるのだろう。
試しに丹楓は「それは本当か?」と問いかけた。嘘を吐いているのなら結果は分かるな、とも圧をかけてみた。────それでも龍師はぐっと歯を食い縛ってから、「もちろんです」と丹楓に深々と頭を下げ、肯定の意を示した。
代わりに早急に本人に知らせることと、誰にも知られることもなく粛々と行われることが前提だと彼は言った。初めから周りに知られることもないのに。
────それでも。それでも良かった。丹楓はこの話を切り出されてから、胸の奥で早鐘を打つ心臓の存在を認識する。普段なら静かに規則正しく脈打つ鼓動が、今になって飛び跳ね存在を主張していた。まるで、婚儀の相手が応星に代われることが嬉しいと言っているようだった。
それであれば引き受けよう、と丹楓は極力感情を出さないように淡々と告げる。今までは意識をしなくとも、表情筋が動いたことなど全くなかった。それでもなるべく、龍師たちの機嫌を損ねないように注意を払って告げれば、彼は一言だけ礼を述べた。
このような大切な話は自分の口から言い出すべきだろう。応星に選択肢は与えるつもりではあるが、丹楓は不思議と応星がこの話をふたつ返事で了承してくれるような気がしていた。万が一にでも断られたら、そのときは提案をしてきた彼らに報いるため、相手が誰であろうと婚儀を進める心持ちでいた。
それほどまでに自信があったのだ。応星ならば期待に応えてくれるはずだと。
────だからこそ、噂を聞いたとき「まさか」と思った。応星からの贈り物は途絶え、話す機会は殆どなくなっていたが、タイミングが悪いだけだと決めつけた。景元は何故だか必死に宥めていたが、その理由が実は応星に対する好意が気が付かれているのだと知ったのは、そこから数時間したところだ。丹楓は応星のことが好きなんだろう、とこっそり耳打ちされたときに面食らったのを覚えている。
知っているのは景元だけだった。────しかし、景元曰くもしかしたら他の二人も気が付いているのかもしれないとのことだった。気が付いている上で、何も変わらない態度で接してくれているのだと、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなったような気がした。
まだ平気だ。二人が言っていたではないか、お互いは家族のような間柄だと。
────そう言い聞かせて、けれど念のためと集まりがあった際に丹楓はそっと白珠に了承を得た。応星に大切な話がしたいと。そこで二人きりになって、数日後に執り行われる婚儀の相手になってほしい、と頼む予定だった。頼む予定で声をかけようとしたとき、目の前でするりと躱された途端に、ぐらりと世界が揺れたような錯覚に陥った。
そうしてふと、妙な噂が脳裏をよぎる。
応星と白珠は付き合っているのではないか、というおかしな噂。それは、応星と白珠の関係性を知らない仙舟人が言い出して、すぐに鏡流に消された一時の噂。
────それが本当でなくとも、応星が白珠を想っている可能性を視野に入れなかったのは、自分が想われていると自惚れていたからではないだろうか。応星が贈り物をピタリとやめたのも、白珠に想いが向いたからで、話をする機会が少なくなったのも、現に彼女と何らかの話をすることが多くなったからだろう。
応星がふたつ返事で了承してくれるなど、自分の自惚れでしかなかった。────そう気が付くや否や、足下が崩れ落ちるような気がして酷く不快でしかなかった。全身の血の気が引き、感情という感情が薄れていくのを感じていた。応星が身を案じてくれて声をかけたが、もう話を切り出す気持ちにもなれず、丹楓は首を左右に振って終わらせてしまった。
────結局丹楓は婚儀の話を持ち出せないまま、屋敷へと帰った。もう予定された日まで時間がなく、拒むなど無理な話で。それならいっそのこと知らしめてやろう、と丹楓は龍師たちに告げた。
「余は婚儀を受ける。相手は代えずに。仙舟の民に伝えろ、待たせてすまなかったと」