恋、患い3

 ────ビクリと肩が弾かれたように震え、丹楓は勢いよく目を覚ます。見慣れた天井に見慣れた個室。自分にあてられた自室で体を起こした丹楓は、くらりと揺れる視界に気分の悪さを覚えた。思わず額に手を当てて頭を左右に振る。最後に押し当てられた唇の感触は未だに残っているが、何とか意識を持ち直せた。
 いくら籠の中だとしても昼夜くらいの時間は分かる。窓から覗く月明かりを一瞥した丹楓は小さな舌打ちを溢し、溜め息を吐く。その物音で気が付いたのか、扉が静かに開いたあと、扉の向こうから深々と頭を下げている側仕えがいたのだ。

「…………今回余は、どのくらい眠っていた?」

 そう問いかければ彼女は弱々しい声色で「三日ほど」と答えた。三日ほど眠りに落ちていた丹楓を起こすため、体を揺すってみたものの一向に目を覚ます気配がなかったとも言っていた。
 彼女はここ最近の丹楓の不調に気が付いていながらも、極力情報を外部へと漏らさないように努めてくれていた。龍師たちに怪訝な顔をされようとも、側仕えとしての役割を果たせていないと苦言を呈されようとも、丹楓の不利になるようなことはしなかった。
 するりと物音ひとつも立てることなく、彼女は丹楓の元へと歩み寄る。その手にはやはり桶が収まっていて、しっとりと濡れた布もあった、彼女は文句をひとつも言わずに丹楓の身の回りの世話をしようとしているのだ。その表情がいくらか不安に塗れていようとも、丹楓はそれに触れるわけにはいかないのだろう。
 初めは右腕、次に左腕。そうして背中と順当に体を拭ってくれている彼女に、婚儀はあとどれくらいに差し迫っているのかと問えば、二日後ですとの返答がされた。溜まっていた業務はいくらか処理できたはずで、残っている業務は後回しにしても問題はないはずだ。────最後に見ていた景色すらも覚えていないものだから、確証は得られない。それでも丹楓はあたかも他人事のように呆然と、「もうそんなに迫ったのか」と呟きを洩らした。
 余計な騒音も、人の声もない空間で、自分と側仕えの息遣いだけが聞こえてくる。龍師たちの小言が一番耳に障ると愚痴を洩らせば、彼女は「今だけはゆっくりとできますね」なんて言った。夜が明ければ再び小言と視線が飛んでくる。「丹楓」として自我を持ってから与えられたそれらには、小さい頃から嫌気が差してきていたものだ。何度この檻の中から出たいと思ったことだろう。
 ぼんやりと宙に投げていた視線を、布地に覆い隠されている数々の贈り物へと移す。上質なそれに隠れた応星からの贈り物は、布の下にいてもその輝きを放ち続けているのだろう。丹楓にあてられた贈り物でなければそれ相応の価値がついているであろうそれを見つめて、彼らは今何をしているのかと想いを馳せる。今まで伏せてきた婚儀の話は仙舟全土に広まっていて、どこもかしこもその話題で持ちきりなのだ。
 たった一夜の何でもない儀式の為だけに、誰も彼もがその話をする。大したことでもないはずなのに、丹楓の心は締め付けられたように苦しかった。日中は考えないようにと何度も気を張り詰めていたものの、こうして邪魔が入らない場所へいれば何度も応星のことが脳裏をよぎってくる。────相手が応星だったらこんなにも憂鬱にはならなかっただろう。
 応星は元気にしているだろうか。────そうぼうっと一点だけを見つめていると、不意に彼女は機嫌を窺うように語りかける。

「……今からでもお相手を代えるのはいかがでしょうか」

 貴方様は気付いておられないようですが、毎日毎日贈り物を見つめているのですよ、と彼女は言った。丹楓は意識しているわけではないが、毎日決まった時間帯にぼんやりと贈り物の一角を見つめているようだ。その表情は少しばかり寂しげで、触れてしまえば壊れてしまいそうな儚さがあるのだと。
 そんな表現に「大袈裟だ」と言えば、彼女は決して大袈裟ではございませんと言い放った。一部の持明族は時折こうして丹楓に対して過剰なまでの評価を抱いていることがある。綺麗だとか美しいだとか、外見ばかりを気にしてまるで丹楓という個を見ているような気はしなかった。彼らは飲月君という存在をそれほどまでに好いているのだろう。
 あたかも他人事のようにそう思っていれば、ふと自分の体が少しずつ眠気を湛えていることが分かった。体は気怠く、頭の回転もままならない。側仕えの彼女の声が少しだけ遠退いているような錯覚さえも覚えて、瞼が重くなってくる。三日も眠っていたというのにこの体はまだ眠りを求めているのかと思っていると、不意に夢の中の応星が言っていた言葉を思い出した。
 彼は他の誰にも危害は加えないと言っていた。その真偽を確かめるべく、丹楓は傍にいる彼女へと視線を移す。彼女は少しずつ意識が朦朧としている丹楓の様子を見かねて不安そうにしているが、体のどこにも傷があるわけではなかった。目元も隈があるわけでもなく、体のどこかが悪そうにしているわけでもない。────確かに健康そのもので、何となく本当に、彼の言うことは間違いではなかったように思うのだ。

「飲月君、」
「…………よい」

 彼女はこくりと船を漕ぎ始める丹楓の体を支えようと咄嗟に手を伸ばす。それを制して丹楓は彼女に部屋を後にするようにと指示を下した。三日も眠っていたはずの丹楓が、何故か再び眠りへと誘われているのを見て、いてもたってもいられなくなったのだろう。かくいう丹楓も、眠り続けていた誰かがまた眠りに入ろうとするのを見れば、不安に身を駆られかねない。もしもそれが応星だったら、と思えば恐怖すら覚えてしまうものだ。
 ────だが、これは丹楓に危害を加えるようなものでもないのだ。婚儀が迫っている今、少しでも現実を忘れたいと思ってしまう気持ちがどうしても捨てきれない。相手が応星であれば良かったのにと、何度も思ってしまうことも、心の弱さが生んだものだろう。
 万が一眠っていたら二日後に起こすように彼女へと告げてから、丹楓は再び贈り物へと視線を投げる。彼女は不安そうな表情のまま、────けれど丹楓の指示に従うように、そうっとその場を後にした。一礼してから扉を閉める微かな音を耳にして、服を正してから近くにある机に肘を置く。そのまま頬杖を突いてぼうっとそれらを見つめていると、次第に意識が遠くなるのが分かった。

「────な? 俺は危害を加えてなかっただろ?」

 そう言って声の主は丹楓を後ろから抱き留める。首回りに回された彼の腕は優しく丹楓の体を抱き締めていて、離せと言っても今度こそ離してはくれなさそうに見えた。彼の発言に現実の状況が見えているのかと疑いたくもなったが、これは丹楓の夢だ。丹楓の記憶から都合のいいような言動を取っているのだと思えば、不思議と納得がいくような気がした。
 是も非も口にしないでいると、彼は都合のいいように捉えてくれたようで、そのまま丹楓の頭を優しく撫でてくる。飛びきりの甘いものを与えてくる大人のように、何やら体に疲労が溜まっている丹楓の体を労ってくれるのだ。
 彼は何故こんなにも優しく接してくるのだろう。────そう疑問に思って視線を宙から応星へ。パチリと目が合った瞬間に、応星は嬉しいと言わんばかりにニッと笑う。その藤紫色の瞳に光という光は見えなかった。

「……余は眠っているのか?」

 先程までおかしなほど眠気に苛まれていたというのに、今となっては意識がはっきりとしている。現実と区別もつかないほどはっきりとしている夢に、何気なくそう問いかければ応星は頷いて「寝てるんだよ」と言う。

「お前さんは本当はその日を迎えたくなくて仕方がないんだ。だからこうして夢に逃げて、自分を守ってるだけ。何も悪いことじゃないぞ?」

 防衛本能ってやつだ。そう言って応星は次こそは容赦なく頭をくしゃくしゃと撫でてくる。この夢の中では立場も寿命も関係ない────そう言っているようだ。丁寧に手入れされている丹楓の黒髪は、応星の手が離れる頃にはすっかり乱されていて、その髪を乱した張本人が丁寧に直す。まるで、上書きでもしているかのような行動に丹楓は呆れさえも覚えた。
 自分の意思とは裏腹に心は現実を受け入れようとはしていないらしい。相手が応星ではない婚儀を、実のところ丹楓は嫌だと思っているようだ。将軍のことは特別嫌悪しているわけではない。寧ろ、龍師たちに比べればいくらか甘く、それなりの融通は利くいい人というもの。時折彼は自分に好意があるのでは、と思わせてくるような言動を取ることがあるが、丹楓はそれに気が付いていないふりをしていた。
 誰かに向けられる好意に気が付く頃には、丹楓は応星を好ましく思っていたからだ。彼はこの仙舟に落ちてきた唯一の星。龍尊という身分をかなぐり捨て、丹楓という個を引き出してくれる不敬と言われがちの男。────その堂々たる態度がやたらと居心地良く思えて、気が付けば傍にいたいと思えることが殆どだった。
 ────だから、白珠と綿密な関係にあるという噂を聞いたときに確かに傷付いたのだ。彼女とは何の関係もないと言っておきながら、このような噂が立つほど二人で何かしらの関係を持っているという。彼らが丹楓に嘘を吐くとは到底思えないが、少なくとも丹楓に何かしらの隠し事をしているのは事実だろう。
 婚儀が嫌だというよりは、まるで応星と白珠の関係を直視したくないがために夢に逃げているようで、丹楓は応星に対して少しだけ睨みを利かせてやった。すると、彼は丹楓の視線に気が付いたあと困惑した様子で「俺のせいか……?」と小首を傾げる。丹楓が夢に逃げる原因になったのが応星にあるとすれば、確実にこの現象は応星に責任があるだろう。

「其方がしっかりと余に構っていればこのようなことにはならなかったのだ」
「あー……俺は詳しいことは分からんが、すまん……許してくれるか?」

 ちょこちょこと髪を編んで三つ編みにしたのち、応星は困った顔で丹楓の顔を覗き込む。それはいたずらをした動物が飼い主に気付かれてしまったときのそれと全く同じで、不思議と応星にはあるはずのない獣耳が垂れている錯覚を見た。ごめんな、と彼は懸命に許しを請うように、髪や額に口付けを落としていく。わざとらしくリップ音を立ててくるものだから、「もういい」と言ってその顔面に手を押しつけた。現実の応星は困ったように笑うことはあるものの、こんなことはしてこなかったと思えば不思議と心臓が高鳴る。────やはり、応星のことをこの上なく好いているのだろう。
 この夢は丹楓が望んでいることを再現していると、応星は言っている。応星との関係は丹楓が望んでいる関係であると。それが本当であるのなら、丹楓は応星との親友という関係を越えた上で婚儀を挙げたいと思っているのだ。仮に応星が親友という関係を維持していたいと思っていたとしても。
 丹楓の胸の内を知ったとき、応星は一体どのような反応を示すのだろう。────そう考えると、どうしようもなく不安に駆られてしまって。きゅっと拳を握り締めていると、それに気が付いた応星が言う。

「そう不安そうな顔すんな。言ったろ? ここはお前の望みを叶えてやれるって。お前が不安なら、その不安が拭えるまで俺が傍にいてやるからな」

 そうして握り締めている手をほどいて、傷がついていないかどうかの確認を念入りにする。綺麗な肌が傷付いたら大変だの何だのと言って、手のひらをいじり回してから指先を絡めてきた。何の脈絡のない行動にそれとなく緊張が走るが、これも自分が望んでいることだというのだろうか。
 現実の応星は、このようなことをしてくるのだろうか。

「…………丹楓」

 あまり話もしなくなった龍尊のことを、応星は気軽に丹楓と呼んでくれるのだろうか。

「このまま逃げちまうか」

 ────そう言って応星は丹楓の手を力強く握り締めるのだった。