恋、患い3

 ────自分の体に起こっている異常性を誰よりも認識している丹楓は、現状に小さく唇を噛み締めることしかできなかった。
 例の夜から二日が経った。丹楓の指示通り、応星からの贈り物には全体を覆い隠すほどの大きな布がかぶさっている。その生地はとても上質なもので、丹楓という存在に似合う素材のものを選んでくれたようだ。
 それに適当な布で良かったと告げれば、「後悔なさるのは貴方様ですよ」と彼女は言った。百冶応星が個人的に作ったその作品は、どこに売りに出しても恥じることのない上等なもの。それをがさつに扱って割りでもすれば、そう指示した丹楓が後悔に胸を焼くのは目に見えているのだという。
 どこまでも自分を知り尽くしている言動に、丹楓は諦めの気持ちで「そうか」と呟いた。そのまま部屋を後にして、溜め込んだ業務を片付けるために再び体に鞭を打ち始める。視察、戦闘、それに沐浴を加えてもらって、体を清めていくことを始めてからたった二日。二日しか経っていないというのに丹楓はまた泥沼のようなはっきりとした夢を見てしまった。
 ふ、と気が付いて顔を上げてみれば、目の前には極力接することをやめた応星が座っていた。だらしなく床に書物を広げて、じっと黙読しているものだから、丹楓は咄嗟に声をかけて彼の邪魔をすることができなかった。よく見れば丹楓の手元にも書物が収まっていて、思わず首を傾げてしまう。
 丹楓は先程まで沐浴で体を清めていたはずだ。龍である手前、溺れるような事態には至らないとは思うものの、あまり時間をかけてしまえば龍師たちに目をつけられかねない。体に異変が起こっていると知られればまた面倒なことになるのは明白なのだ。
 それなのに彼は今、応星と共に書物を読み漁っている。手に収まっている書物の肌触りも、室内に軽く吹く生温い風も、建物の質感も現実のものと変わりなかった。それでも夢だと分かるのはやはり、応星が丹楓の目の前にいるからだろう。
 その上、丹楓はこうして応星と二人で何かを読み漁っているという記憶が存在しなかった。記憶を忠実に再現している、というのは大きな間違いだったのだろう。
 ────起きろ、起きろと丹楓は心で強く念じてみる。眉間にシワを寄せてぐっと唇を噤んだ。一度でも声を発してしまえば、目の前の応星に存在が気付かれてしまうような気がするのだ。応星を避け続けている丹楓としては、応星に存在を認識されてしまうことは避けたかった。
 何せ丹楓は好きなのだ。応星の低く安定した声色が。いつでも丹楓を気遣うような穏やかな声が、鼓膜を揺さぶる度につい聞き入ってしまう。小さな頃はあれだけ緊張に溢れていた子供が、こんなにも成長して変わるものなのだと実感してしまうのだ。何度も「これが短命種の成長か」と驚きを覚えたことがある。その度にふと、見えない死の足音が聞こえてくるような気がしてきた。
 まるで星の瞬きのように今という今を輝き、その存在を放っている。その姿に誰もが目を向ける度に得も知れない不安に襲われることがあった。丹楓は幼少の応星を知ってはいるが、それでも白珠より知っているわけではない。四六時中見守るわけにもいかない────故に、いつ彼の隣を知らない誰かが埋めてしまうのかと、震えるような不安に襲われていた。
 ────あの噂はただの噂。頭ではそう分かっていても、心はどうしてもそれを「噂」だと認識できず、丹楓は応星の顔を見ることもままならない。これはきっと、恋というもののせいだ。
 応星に気が付かれないよう、丹楓は何度も起きろと自分に言い聞かせていた。このまま顔を見合わせてしまえば、彼に会いたくなってしまう。婚儀を控えた今、どうしてもそれは避けていたかったのだが────、丹楓の願いは虚しく応星がほう、と吐息を洩らす。

「いやあ、やっぱりそう簡単にお目にかかれない書物ばっかだな。どれもこれも丹楓のお陰だ」

 応星は満足げにそういったあと、丹楓の顔を見て笑った。先程まで書物に向かって向けていた真剣な顔付きは彼の人懐っこい笑みによって掻き消されている。丹楓は応星のその表情をこの上ないほど好いていて、胸の奥がきゅぅ、と締め付けられる奇妙な感覚を覚えた。真剣な顔付きは大人そのものではあるが、笑った顔は子供のような純真さを兼ね備えている。────それが、堪らなく愛らしいのだ。
 しかし、これを夢だと自覚している丹楓はその言葉に何も返そうとはしなかった。そっと視線を逸らし、唇を一文字に固く結ぶ。答えてしまったら最後だと思う自分が隠せなかった。
 起きろと何度も自分自身に言い聞かせる。いっそのこと誰かしら体を揺さぶって起こしてほしいとさえ思っている。────だが、丹楓は龍尊だ。龍尊の体に気安く触れようものなら、それ相応の罰というものがある。皆それを懸念して体を揺することなどないのだろう。こんなときばかり身分を気にしなくていいものを、と何度思ったことか。
 ────丹楓の苦悩も露知らず。応星の見た目をしたそれは、丹楓が答えなくとも勝手に話を進めている。「特にこれなんか俺が知りたかったものそのものだ」や「誰にも邪魔されないのもいいな」なんて言った。まるで丹楓が応星と話をしないように努めていることに気が付かないように。
 そのあと彼は丹楓の言葉を待たずに書物を閉じ、にこにこと人当たりのいい笑みを浮かべたまま丹楓を見やる。丹楓が一言も喋らないことに不満を抱いたかと思ったが、彼は不思議なほど上機嫌に丹楓を見つめて「綺麗だな」なんて言った。

「…………は?」

 突拍子もない妙な誉め言葉に、つい丹楓は唇を開いてしまう。
 徐に床から応星へと視線を向けてやれば、彼は漸く合った目を見て瞬きをひとつ。やっと目が合った、と呟いて自分の手を丹楓の頬へ添える。少しだけかさついた指先が丹楓の頬を掠めたあと、それでも温かな手のひらが頬を包むのが分かった。記憶が確かなら、夢の中の応星はやたらと丹楓の頬や髪に触れたがる節がある。ここにいることをその手で実感させるように、何度も目尻を指先が掠めていた。

「お前さん、どうして俺を避けるんだ?」

 夢だというのにも拘わらず、応星は丹楓が意図的に会話を避けていることに気が付いているようだ。彼の言動に思わず丹楓が身動ぎもしないまま呆然と言葉の意味を探っていると、応星が足元を浮かせてそっと傍へと近寄ってくる。貴重だなんだと言い放った書物は置き去りに、額がコツンと音を立てて押し当てられたのが分かった。
 応星の白い髪から覗く藤色の瞳が、微かに弧を描きながら丹楓を見つめている。絶対に逃がしてやらないという強い意志を込めたそれが、あまりにも居心地が悪くて堪らず視線を逸らした。
 ────しかし、応星はすかさず「逸らすな」と低く呟きを洩らす。普段よりも少しだけ低い声色が、応星を遠ざけていた丹楓の鼓膜を揺さぶった。獲物が追い詰められていく感覚はこのようなものか、などと思いながらそろそろと視線を戻すと、応星は満足そうにニッと笑う。どういう原理かは分からないが、彼は丹楓に避けられていることをしっかりと理解しているようだ。

「…………避けてなどおらぬ。余は龍尊である身、近頃は予定が立て込んでいるだけだ」

 ────嘘ではない。近頃は婚儀を円滑に進めるため、溜め込み続けていた業務をこなしているだけ。昼夜問わず龍師たちに囲われ、殆ど自由の利かない身ではあるが、それも応星たちと出会う前の頃とそう変わらない。
 平常を保つため、丹楓は腕を組んで深く息を吐いた。ふう、と息を吐き捨てると同時、胸の奥で心臓が激しく脈打っていることに気が付く。緊張か不安か、どちらのものであるのかは定かではないが、その鼓動が今は少し心地が悪く思えた。
 応星は先程の説明に納得がいったのだろう。「そうなのか?」と呟く彼の様子は、普段の様子と何ら変わりのないものになっている。身の内に忌み者への憎しみを溜め込みながら、丹楓の身を案じてくれる優しい応星がそこにはいるのだ。
 そうだと肯定するように首を縦に振れば、応星はパッと頬から手を離してしまった。彼の体温を好いている丹楓は、その温もりが離れることに対して多少なりとも寂しく思っていると────、不意に応星が丹楓の体をぐっと引き寄せる。ぐらりと揺れる視界に思わず体を強張らせていると、視界は応星が着ている服で満たされた。

「────!? 何を」
「予定が立て込んでるんなら疲れてるだろ? 多忙な龍尊様を短命種な俺が労ってやろうと思ってな?」

 上機嫌に弾むような声色は真面目に応えている丹楓を揶揄ってやろうと言わんばかりのものだった。思わず身動ぎを繰り返すものの、応星は丹楓の体を両腕で抱き締めていて、到底離してくれそうにない。それどころか、彼は丹楓の滑らかな黒髪を軽く撫でてから、トントンと背中を軽く叩いてくるのだ。
 穏やかな心音に合わせるようにリズムを刻んでくるその手に、丹楓の呼吸は落ち着きを通り越して少しずつ眠気が誘われてくる。夢の中にいるはずなのに、眠気を覚えるなど奇想天外な話ではあるものの、確かに瞼が落ちていくような感覚に陥った。それでも何故だか抵抗を失う体に鞭を打って、応星の腕をぐっと掴みかかる。自分とは異なった逞しい腕は現実のそれと全く同じだ。

「余計な世話だ…………離せ」

 比較的突き放すように冷たく声を放てば、応星は難なく手を離してくれるものだと思っていた。実際応星は丹楓に何もないと知れば、深入りすることはせずに適度な距離を保ってくれる。その距離感が何とも言えないほど絶妙で、心地がよかった。────たとえ、それだけでは満足できないほど欲張りになってしまっていたとしても。
 丹楓は自分の体を起こすために、応星の腕に置いている手に力を込める。────しかし、彼の体は起き上がるどころかいつまでも応星の腕の中に収まっていて、離す気配はなかった。動けないまま恐る恐る顔を上げて上目で応星を見上げれば、彼は不思議なほどにこにことしながら丹楓を見下ろしている。
 思わず「応星……?」と呟きを洩らせば、彼は「どうして離さなきゃならないんだ?」なんて丹楓に問いかけた。

「たぁんふう、お前も分かってるだろ。これはお前自身が望んでることだって」

 ゆっくりと頭を撫でる手が再び頬の輪郭へと伸びる。夢だというのに温かな体温はすっかり丹楓の頬に馴染んで、彼の仄かに冷たい頬を温めている。その温もりに確かに安心感をそそられるはずなのに、頬とは裏腹に丹楓の心は冷めていくような錯覚を得た。
 お前が望んでいること────そう告げられて丹楓は必死に頭を働かせる。こうして応星に抱き留められることを自分が望んでいるから夢に見ているのだろうか。それにしてはやけにはっきりしているような気がしてならない。夢は朧気で何かと繋がっていることなど滅多にありはしないのだ。その点を踏まえると、やはり丹楓が見ている夢は何らかの術に影響されて見ているものなのだろうか。
 そうなってしまっては一大事だ。龍尊ともあろう存在が知らない間に奇襲をかけられた挙げ句、術をかけられてのうのうと夢を見続けている。そんな事実が知り渡れば龍師どころか仙舟全土を危機に晒してしまうことになる。そうなれば、白珠や鏡流、景元や応星を危険に晒してしまうかもしれない。
 ────そう思えばのうのうと眠っていられる状況に陥れなくて、堪らず応星の体を突き飛ばした。ドン、と厚い体を両手で押すと、腕にその衝撃が走る。雲吟は使えない。こうしている今も誰かが犠牲になるかもしれないと思うと、心臓がバクバクと気味の悪い脈を打っている気がした。
 丹楓は応星を突き飛ばしたはずなのに、彼は対して驚いた様子もなかった。まるで丹楓が突き飛ばすのを初めから知っていたと言わんばかりに、両手をヒラヒラと軽く振っている。彼は相変わらずにこにこと笑っていて、丹楓が考えていることを言い当てるように「危害は加えないぞ」と応星の声で言った。

「危害は加えないなどと、誰が信じられる?」

 少なくともこれは、丹楓が何よりも恋しいと思っている声で語りかけることで、警戒心を解いてきたのだ。それが無害だと一体誰が信じられるのだろうか。
 キッと睨みを利かせてそれを見るが、彼は臆することもなく「本当なんだけどな」と肩を竦めながら言う。恐らく彼は丹楓が雲吟が使えないことを知っているのだろう。ぐっと再び体を近づけたあと、優しい微笑みで「信じてくれないか?」なんて言った。

「俺はただお前が望んでいる関係を築いているだけだ。他の誰にも危害は加えてない。目を覚ましたら確認すればいい」

 彼は終始丹楓が眠りに落ちて夢を見ていることに気が付いているようだった。夢の中だからこそ会えているのだと、丹楓が望んでいる関係を築けているのだと。到底応星が嘘を吐くようには見えなくて、徐に「余が望んでいる関係とは」と丹楓が呟けば、彼は少しだけ目を見開いて「分かってるんだろ」と再び言う。

「恋人関係だって」

 ────そう言って応星は丹楓の唇にそうっと自分の唇を寄せたのだった。