────ふ、と目を覚ませば、見慣れた天井が丹楓の視界に映った。仄かに灯る照明が、部屋の暗さが時刻は夜だと示している。体を追い込んだ影響が出て眠ってしまったのかと独り言を洩らすと、途端に酷い虚無感に襲われた。
ゆっくりと体を起こし、丹楓は頭を左右に振る。何時間、ではなく何日も眠っていたかのような気怠さに、思わず溜め息を吐いた。────すると、そのタイミングで扉が開き、側仕えの持明族が視界に入る。彼女は丹楓が体を起こしたのを見てハッと息を呑んだが、咄嗟に冷静さを取り戻しながら小さく頭を下げた。声もかけずに部屋に入ろうとしたことを謝罪しているようだ。
丹楓はそんな彼女に「よい」と一言。そのまま部屋に上がるよう告げると、彼女は何も言わずにそっと部屋へと足を踏み入れる。その手元には桶と布が用意されていて、彼女は丹楓の体を拭くためにやって来たのだと悟った。
「……余はどれくらい眠っていた?」
彼女は一番に龍師たちに告げるのではなく、あくまで丹楓の体を優先する。その聡明さをいたく気に入っていて、丹楓はどれだけ長い時間が経っても側仕えだけは替えようとはしなかった。彼女は、丹楓が応星からもらったものを部屋に置いている事実を黙認してくれていた。
すっと腕を差し出せば、彼女は慣れた手つきで濡れた布を丹楓の肌に押し当て、丁寧に体を拭いてくれる。湿った布が肌を走ったあと、決まって薄く鱗が浮いて出た。
「一日と五時間ほどです」
彼女は丁寧に手入れを施しながら丹楓の質問に答える。
丹楓は意識を手放してから丸一日は眠っていたというのだ。心労に加え、身体的疲労が蓄積して限界を迎えたのだろうというのが彼女の見解だった。その考えに丹楓も同調したが、だからと言って休んでもいられないと言えば、彼女はピタリと手を止める。
「失礼を承知で言いますが……近頃の貴方様は少々無理をなさっているように見えます。適度な休息を挟んだ方がよろしいかと」
背中を拭いてもらうために服を軽く脱いで背を向ければ、彼女は慣れた様子で背中を拭いてくれる。本来なら浴場に赴くか、水浴びでもするべきだということは分かっていた。あるいは、婚儀のために沐浴を行うべきだとも。
それでも彼女がその提案をしないのは、丹楓が眠りから目覚めたばかりだからだろう。
「言っただろう、休んでいられないのだ。婚儀まで日にちが少ない。完璧に終わらせるためには、今まで放ってきた業務を終わらせる必要がある」
どれもこれも自業自得だ。────そう言って丹楓は体を拭く手が離れたのを見計らって、服を正した。するりと袖に通す腕が先程よりも滑らかで、体の清潔を保つのは大切なことだと実感する。やはりここは数日間は沐浴でもするべきだろう、と思っていると、何気なく視線が応星からの贈り物へと向かってしまう。
彼女は丹楓の自嘲気味な言葉を否定しようと息を吸ったが、丹楓が普段のようにぼうっと一点を見つめているのを見かねて「そう言えば」と切り出した。
「本日ご友人らが訪ねて来たようです。一応『お忙しい身だ』という体で追い返されたようですが……いかがいたしましょうか」
彼女は持明族の中でも数少ない丹楓の理解者だ。丹楓が何をして、誰と関わっているのかを把握している上で丹楓に問いかけている。────もちろん彼女も初めは応星を目の敵にしていたが、あの短命種と会うことで飲月君の調子が上がるのなら、という理由で彼らの存在に目を瞑ってくれた。
彼女が忙しなく丹楓の看病を続けている最中、龍師たちがこそこそと話し合っているのが聞こえてきたらしい。最近噂になっている婚儀についての話が聞きたい、と短命種が来たと言うのだ。
その話に彼女はふと、疑問を持った。
彼女は丹楓が応星を想っていることを知っている。ふとした視線が、言動がそうであると裏付けているのだ。部屋に置いている贈り物のどれもは一級品で、わざわざ丹楓自らが手入れを欠かさず行っていることから、何らかの特別な情を抱いているものだと確信した。丹楓が頑なに婚儀を拒み続けた理由は、短命種も関わっているのではないかとも思った。
そしてそれは丹楓が「応星は婚儀に応じてくれるだろうか」という何気ない一言で確証へと変わった。彼はきっと婚儀の相手としてあの短命種に話を振るのだろう、とも思っていた。
それなのに────婚儀についての話が聞きたい、というのはどういうことだろうか。
────そんな疑問がありありと浮かんでいることを、丹楓は彼女の顔色を見て察した。場合によっては彼女も応星を許さなくなってしまうだろう。詳細な話は伏せて、丹楓は首を横に振って、彼女の善意を断る。
「四人に知らせるつもりはない。景元や鏡流は知る機会があるだろうが……白珠や応星には何も伝えなくともよい」
元より忙しいのは本当だからな。
そう言って丹楓は再びじっと、応星からの贈り物たちを見た。思えば彼からの花瓶に活ける花を持ち寄ってくれていたのは彼女で、ふと視線をやればいつも花が美しく咲き誇った一瞬を切り取ってきてくれている。それらが枯れた姿を丹楓は見たことがなく、何も言わずとも彼女が毎日丁寧に替えてくれているのだと察した。
いっそのこと叩き割るでもしてくれさえすれば諦めもついたのだろうか。────そう、薄暗い思考が脳を覆う。丹楓はいくら自分が応星を避けているとしても、心はいつでも彼を求めているのだと分かった。
そのようなもの、分かったところで虚しいだけだ、と思わず独り言が洩れる。彼女は相変わらず触れてほしくない話題には触れては来なかった。
そうして丹楓は意を決して、「あの花瓶に暫くは花は活けなくていい」と告げる。
「…………よろしいのですか? 日頃より貴方様はあの一角を気に入って眺めておられましたが」
「…………其方は余をよく見ているな…………構わない。見えないよう、大きな布で隠してほしい」
けれど、割ったり傷付けるようなことはしないように。
────そう言いかけて、思ったような言葉は紡げないまま丹楓は口を閉ざす。彼女は何も言わないまま丹楓の指示に「承知いたしました」とだけ答えて、桶を持ち立ち上がる。大小の物音をひとつも立てないまま、彼女は頭を下げて丹楓の個室を後にした。
見えないようにすれば多少は諦めがつくだろうか。────そう独りごちて、丹楓は青い瞳を瞼の裏に隠す。少しだけ、先程見ていた夢が恋しく思えてしまった夜だった。