────そこからは五人揃うことはなく、丹楓はただ婚儀のための練習と、その日の前に仕事を終わらせるための日程が組まれた。毎日体に鞭打って限界まで自分を追い込んでいけば、普段嫌みったらしい一部の側仕えが妙に体を気遣う素振りを見せた。そうでもしないと応星を忘れられない、と優しさを振り払い、丹楓は夜遅くまで仕事を詰めていた。
仙舟の民に伝えた婚儀のことが広まるのにそう時間はかからず、ふらりと偵察に来てみれば見かねた仙舟人から礼を言われるようになった。これで仙舟も安泰ですね、と彼らはホッと安堵の息を吐いていて、丹楓はそれに小さく頷いた。「婚儀などなくとも同盟は続ける」と一言だけ添えて、あくまで儀式に左右されている生き物ではないことを示していた。
豊穣の軍を打ち倒す緊急命令には無理にでも駆り出て力を振るった。仙舟には民がいる、仙舟には仲間がいる。────仙舟には応星がいる。極力応星には話がいかないように根回しして、変わらない同盟関係を貫き通すと示して見せた。
そんな生活を送っていると、体が悲鳴を上げるのは当然のことで。ある日公務を全うしていると、不意に意識が飛ぶ感覚を得た。誰の声も遠く、意識までも遠退くのが自分でも分かった。
何も言葉を紡げず、泣く泣くその意識を手放すと────不思議な夢を見た。願ってもない、おかしな夢だった。
────応星がいた。普段と何ら変わりのない様子で、眩しい笑顔を向けてくる応星が。夢にしては随分とはっきりとしていて、周りの風景は賑やかで、けれど極力人の通りが少ない街の裏側だった。丹楓がこっそりと屋敷を抜け出し、応星と出掛けている最中のようだ。彼は軽食を買ってきて丹楓の元に戻ると、その手に収まったものを丹楓に手渡した。
何の変哲もない応星とのやり取りだ。丹楓はこれが夢であると、頭の片隅では理解していた。何せ彼は今、応星との接触を避けているのだ。今は会ってもいない男が、街中で丹楓と出掛けているなど、有り得ない話だ。
しかし、丹楓は一度ならず何度もこういった行動に出ていたため、随分と出来の良い夢だと思った。応星と二人、日中の金人港に行ってみたいとせがんで漸く行けたときの鮮明な記憶が呼び起こされる。これは、そのときの記憶を忠実に再現していて、丹楓は自嘲気味に小さく笑った。
夢に見るほど応星に飢えているのかと、自分はろくに我慢もできないのかと、笑っていた。────同時に、夢ならば思う存分楽しんでも良いだろう、と手渡されたものをそっと口に運んだ。食べ慣れない軽食だったが、これを応星は日常的に口にしているのだと思えば、途端に美味しく感じられた。
「はは、龍尊様はやっぱり買い食いは得意じゃなさそうだな?」
口の端に付いてるぞ、と応星は大きな手のひらを丹楓の頬に添える。お世辞にも綺麗とは言い難いが、職人特有の無骨な手が丹楓の滑らかな輪郭を軽く撫でた。温かく、心地の良い体温に丹楓はほうっと安堵の息を洩らす。彼は応星の体温が好きで、触れられることに嫌悪を覚えることはなかった。
────体温も忠実に再現されているのか
そう関心していると、ふと丹楓は自分の夢の異変に気が付いた。
このときの応星は口元の食べカスを指先で拭ったあと、「上品じゃないもんなあ」と言って自分も同じように口を開けて食事をした。丹楓とは違って大口を開けてかぶりつく様子に、少なくとも丹楓は暮らしの違いをまざまざと見せつけられていたのだ。これからはそのように食べたらいいのだろうか、と何気なく問えば、応星は「お前さんはそれくらい小振りな方が似合ってる」なんて言われていたのを覚えている。
それなのに────この夢の応星は、丹楓の頬に手を添えたままじっと丹楓を見下ろしていた。
「……応星?」
夢だから多少の変化があるのだろうか。そんな疑問がよぎるが、それとは別に丹楓は応星が意味もなくじっと自分を見下ろしていることに違和感があった。
仄暗い藤紫色の瞳が優しく、じっと丹楓を見つめている。瞳の奥に妙な不安を覚えたが、変わらない優しさが彼にはあった。まるで何かを実感しているかのようにつ、と応星の手のひらが丹楓の頬の輪郭を小さく撫でる。それが微かにくすぐったくて、僅かに身動ぎをすれば応星が「丹楓」と名前を呼んだ。
「何────」
何だと開いた唇が、言葉の続きを発することもできずに閉ざされる。驚いて指先に込めていた力を抜きかけ、応星が買ってくれた軽食を落としかけたが、辛うじて大事には至らなかった。自分が今、どんな目にあっているのかとまじまじと観察して────漸く分かったのは、応星の顔が今までのどの距離よりも近いということだった。
目一杯に視界に入る応星の顔。月日が経つにつれて少しずつシワを気にし始めたりして、変わらず男前だぞとおだてれば、「そうだろ?」と気分良く乗ってきた男の顔。それが、見たこともないほど近くにあって。唇を塞ぐ柔らかな感覚は、長く生きてきた丹楓にとって初めての感触だった。
丹楓はこれが接吻であると知っていた。恋に関する書物を目にしたとき、そういう対象がどのような行動に出るのかという詳細が記してあった。抱き締めたり、愛を囁いたり、触れ合ったり────何より唇を合わせて行う口付けは、恋人と呼ばれる関係値にある二組がする行為であると記されていた。
それを興味本位で流し見ていたが、自分には到底縁のないものだろうと捨て置いていた。何せその書物に記してあった恋人と呼ばれる定義に収まるものは、男と女の二組だからだ。丹楓は応星を好いているが、どちらか片方が女ということはなく、お互いに男だ。だから、万が一好き合っているとしても、恋人と呼ばれるものに収まることはないのだろうと思っていた。
だからこそ丹楓は驚きで目を見開いた。応星が難なくやり遂げたそれは、書物で流し見た接吻、口付けと呼ばれるものだったからだ。柔らかな感触のそれは、恐らく応星のもので。何故応星がこのような行動に出るのかと頭を働かせ始めた頃に、応星はそっと丹楓から唇を離す。
そして、呆然と応星を見上げる丹楓に向かって快活に笑って言うのだ。
「どうしたんだ、そんなに驚いて。普段のお前さんはそりゃ無表情でも別嬪さんだがな────、そんな顔をされるともう一回したくなる」
笑って、応星は丹楓に添えていた手を頬の輪郭から顎の下へと移動させる。そのまま軽く顎を上げて先程よりも応星をまっすぐに見上げる形を取らされた丹楓は、ぐっと体を強張らせた。
応星の優しい瞳の奥に、ギラリと燃えるような欲を感じた。彼はまだ理性を持って丹楓と接しているようではあるが、煽りでも入れてしまえばその場で手を出してしまいそうな雰囲気を醸し出している。その証拠に応星は丹楓の顎を上げさせたまま、指先で器用に丹楓の唇を軽く突いて、撫でた。まるで驚いているのが不思議と言わんばかりの言動に、丹楓は堪らず「何故このようなことを」と口を開く。
意中でもない、ましてや恋仲でもない自分と、どうしてこんなことをしたのだと訊けば、応星は不思議そうに首を傾げた。
「何を言ってるんだ、丹楓。俺たちは恋人だろ」
────彼ははっきりとそう言って、丹楓に自覚を持たせるように再び口付けを落とした。
これは夢だ。丹楓の本能がはっきりとそう物語っている。それも記憶を忠実に再現している精巧な夢だ。一瞬だけ何らかの術をかけられたのかと思ったが、誰かが術を使うような気配はしなかった。だからこれは、丹楓が見ている都合のいい夢でしかない。
よくよく思い返せばいくつか違和感はあった。このときの応星は、しっかりと自分の分の軽食を用意していたはずなのに、この夢では応星は丹楓の分しか用意していなかった。つい、と丹楓が軽食を持っている手を撫でてくるのが分かる。彼は初めから丹楓の為に動いているようだった。
「納得したか?」
そう言いながら応星は丹楓を解放しながら、再びじっと丹楓を見下ろした。その瞳は相変わらず優しいもので、先程の欲に塗れた目付きは少しも見当たらなかった。代わりに彼は額に、頬に軽い口付けを落として、丹楓が自分の恋人であることを改めて知らしめているようだ。
丹楓はそれに「納得した」と言えば、応星はパッと笑って丹楓の片手を取り、指を絡める。まるで少年心が残っているその表情とは裏腹に、丹楓の顔は陰りを帯びていた。
納得したのだ。────これは、自分の願望が反映されている夢なのだと。