俺の部下の愛が重い2

「ベル! 前言ってた新作の菓子、買ってきたぜ~! 気になるって言ってたろ?」

 そう言って意気揚々と駆け寄ってきた部下――もとい、ノーチェは、優雅に木陰の下で紅茶を嗜むクレーベルトに小袋を差し出してきた。左右で長さの違う白髪が日の光を受けてキラキラと輝いて見える。それに男が小さく顔を顰めると、彼はクレーベルトの顔色を察して同じように木陰へと入ってきた。彼は男が一人でお茶会を楽しんでいるのを知った上で、用意されている空いた席に堂々と座り頬杖を突く。彼に差し出された小袋を受け取ったクレーベルトは、一見何の反応も示していないように見えるものの、瞳の奥に爛々と輝くものがあった。
 心地の良い気候の中、日光がそれほど差し込まない穏やかな時間帯に、クレーベルトは小さなお茶会を開くことがあった。初めは身内と打ち解けるために設けた時間ではあったが、今では男の息抜きとして当てられる時間になることが殆どだ。
 街から離れていながらも、遠くには人が何人か見えるような視界の晴れた場所。草木が生い茂り、時折小動物がやって来る木陰の下に、男は白いテーブルと椅子を用意してゆっくりと体を休めることがある。遠くから聞こえてくる身内の笑い声は、到底殺し合いが発生するとは思えないほど和やかな光景だった。
 クレーベルトはその光景を眺めながら優雅に紅茶を嗜み、用意してきた洋菓子を口にしながら息抜きをするのが好きだった。人間に嫌われる体質だが、何故か動物からはよく好かれるようで、気が付けば足下に見慣れない猫が静かに佇んでいることも多々ある。その様子を横目で見つつ、ほう、と吐息を吐いた頃。決まって男を慕う部下が一人、男の居場所を突き当ててくるのだ。
 白い毛髪に、黒く彩られた胸膜が特徴的な男。――クレーベルトの体質をものともせず、好意を抱いてくるノーチェ・ヴランシュ――彼がそうだった。当初彼は男に対して反抗的な一面を見せてきていたものの、男がボスとして相応しい存在であると認めるや否や、従順な犬のように従うようになった。その裏にクレーベルトに対する感情があったとしても、男は懐いてくる彼のことを良く思っていた。
 そんなノーチェが、クレーベルトは甘いものが好きだということを知って、定期的に菓子を持ち寄ってくる。今日持ってきたのは、以前男が独り言を呟くように「新しい菓子が出たらしい」と言ったものだった。小袋を開けた先にあるのは、芳醇な香りが特徴的なチョコレート菓子で、男はその甘い香りにほう、と吐息を洩らす。
 クレーベルトは表情には出さないものの、甘いものが何よりも好きだった。口当たりの良いそれは、幾度となく内密に裏切り者を屠ってきた男の口内を、甘味で満たしてくれる。舌の上を転がる甘味に、男は何度も舌鼓を打っては頬を綻ばせていた。甘いものは良い、心が躍る――それが男の口癖になるまで、そう時間はかからなかった。ココアパウダーをふんだんにまとったチョコレートは、ほんの少しだけ苦みを持っていたが、クレーベルトの許容範囲内だったようだ。
 その合間に紅茶やクッキーを嗜み、男は満足げに深呼吸をする。――ふと目の前を見ればノーチェがじっと男の顔を眺めているのが分かった。黒い胸膜に夜空を切り取ったかのような瞳が男を見つめている。一体いつからそうしているのかは定かではないが、彼は男の顔を眺めて満足そうに笑ってみせた。成人している割には屈託のない笑みに、思わずクレーベルトは視線を逸らす。嫌悪感や恐怖がない表情に、男は未だ慣れていなかった。
 好意が詰まった視線。愛しくて堪らないと言いたげなそれに、クレーベルトは食指が止まりかける。――しかし、悪い心地はしなかった。何せ、男は彼の特徴的な瞳を好んでいるからだ。
 夜空を切り取った不思議な瞳。そこに浮かぶ、三日月は実際に夜空に浮かぶ月と遜色はない。その瞳は、彼の一族特有の、ある種の特徴のひとつだった。自分のように人間の皮を被った獣がいれば、彼のように何らかの加護を受けた人種がいる。――そう思えば、現実の世界には様々な人間がいるのだと男は納得がいった。
 ――だが、それでもクレーベルトは疑問が募るばかりだった。自分の体質上、人間に嫌われてしまうのは必然的なものであり、本来ならば彼も例外ではないはずだ。それなのに何故、彼は自分のことを愛していると宣うのか。

「…………飲むだろう」
「お、いいのか?」

 チョコレートが入った小袋を傍らに置き、クレーベルトは当然のように用意していたティーカップに手を伸ばす。美味しい紅茶の淹れ方というものを身内に教わって以来、男は自らの手で紅茶を注ぐことが多くなった。白いポットから赤茶色の香ばしい液体が湯気を出してカップに注がれる。そこにドライフルーツを付け加えてやって、彼に差し出せば喜んで受け取った。
「今日はいつもと違う雰囲気なんだな。まあ、ベルが好きなら何でもいいんだけど」
 そう言ってノーチェは形式上香りを楽しんでから、紅茶を一口。フルーツが加わっているお陰か、いつもと少し違う気がする、と言ってからクッキーへと手を伸ばす。本来なら何の許可もなく手を伸ばすことに叱咤するべきなのだろうが、クレーベルトは彼の言葉に小さく目を泳がせた。

 ベル――そう、愛称をつけられたのはいつの頃だったか、男はもう覚えていない。ただ、初めは誰もが男を「ボス」と呼んでいた所為で、その愛称が自分を指していると言うことに気が付いたのは、数日経った頃だった。
 男に実力が認められ、距離も近くなったノーチェは、いつの頃からかボスではなくベルと男を呼ぶようになった。初めは見ず知らずの女の名前でも呼んでいるのかと、気にも留めていなかったものだ。何せ彼は自他共に認めるほど、女遊びに夢中だった。急用があるからと呼び出せば、何やら不機嫌な様子で男の前に現れることも多く、理由を聞けば「遊んだだけの女が」と小さく文句を呟くこともあった。
 女で遊ぶ、などといった感性を持ち合わせていない男は、可愛がっている犬が余所に尻尾を振っているという事実に多少の不快感を持ち合わせていたものの、彼を止めることはしなかった。極力人間に干渉しない――そうして元々の暮らしを崩させないようにしていた男は、気が付かなかったのだ。ノーチェの、男を見る目が尊敬とは異なった感情を湛えていたことに。
 ベル、とノーチェが口にする度に、身に覚えのない何かが口の中を這うような感覚が男を襲う。何も口にしていないというのに、何故だか甘いような気がして咄嗟に紅茶を呷った。淹れ立ての頃より幾分か冷めた液体が、甘いという錯覚と共に食道を通っていくのがよく分かる。身に覚えのない感覚が紅茶の苦みに浚われたあと、男はノーチェに向き直った。彼はクレーベルトと目が合うと決まって嬉しそうに笑ってくる。それが、犬のように見えて愛しくて仕方がなかった。

「まだ忙しい感じか?」
「……まあな」

 紅茶を一口呷ったノーチェは、クレーベルトの様子を窺い始める。ボスという立場上、男は不定期に忙しさに身を投じることがあった。その忙しさは、周りの手を借りるほど広がることがあれば、男一人で解決できる程度のものの二種類がある。その状況をノーチェが知らないということは、現状全ての問題をクレーベルト一人が解決しようとしていることだ。
 ノーチェの問いに男は頷いて、クッキーを口へと運んだ。サクサクと軽い食感が口の中に広がる。チョコレートとはまた別の朗らかな甘さに、思わず男の口元が小さく弧を描いたのを、ノーチェは見逃さなかったようだ。「本当に甘いもん好きな」と彼は言って、何気なく男の手を取る。
 普段なら日光を避けるべく、クレーベルトの露出は極限まで減らされている。長く厚いコートをまとい、手は黒い手袋で覆い隠していた。頭部はコートのフードで日光を遮断し、日の光を浴びないよう徹底されている。――その理由がどれもこれも、男が嫌われてしまうという体質に起因していて、男は太陽にすら見放されているのだ。
 その手が、男の息抜きの時間になると漸く布から顔を出し、白い肌を露わにさせる。女顔負けのそれは陶器のように白く、絹のように滑らかで傷ひとつない。一言で表せば「綺麗」と言われるそれの指先は、爪が黒く染められていた。
 その手を取り、ノーチェはそうっと自分の口元へと男の手を寄せる。ほんのり柔らかな感触が手のひらを伝った。それが、彼の唇なのだと気が付くと同時に、男は気が付かれない程度に体を強張らせてしまう。「早く暇になってくれよ」と手のひらの近くで唇が動いた所為か、言葉を紡がれた所為か。生暖かい吐息が手を伝うものだから、男は無言で手を引いた。多少のむず痒さがクレーベルトの居心地を悪くして、男は小さく溜め息を吐く。
 だが、彼はそんなクレーベルトの態度を気にも留めず、「そんなに余裕ないのか?」と軽く問いかけた。

「俺はただ、早くご褒美が欲しいだけなんだけどな? もしそんなに余裕がないんなら、お前のこと、手伝うけど……」

 俺にできることはあるか、とノーチェは言葉を続けた。その表情に、先程のように揶揄いを伴った軽い笑みは微塵も浮かんではいない。クレーベルトとは対照的に、彼の表情はコロコロと移り変わり――今では男のことを心底心配していると言いたげな顔をしていた。薄く眉間にシワを寄せ、弧を描いていた口元はきゅっと一文字に結ばれている。その顔付きの理由が、男の片腕にあると自覚していて――、クレーベルトは片手で持っていたカップをソーサーの上に置いてからそっと自身の右腕に手を伸ばす。

 自身の不手際で身内を追い詰めてしまったこと。その代わりに右腕を差し出し、不意打ちで敵対している軍団を一掃したことは後悔していない。男ができる後悔は、せいぜい身内を危険に晒してしまったことだけ。たったそれだけだというのに、ノーチェは男が腕を失った理由が自分にあるとすら思い続けている。空になった袖を見る度に、傷を背負ったかのように苦しそうな表情を浮かべるのが見るに堪えなくて、男は己の力を活用して自前の義手を用意した。
 普段なら手袋の下に隠されている両の手。――その右手だけは、深い黒に染まり、何の感覚も得ることはない。何かを持っているという感覚も、彼の頭を撫でているという感覚も、何もなかった。
 ――それでもクレーベルトは後悔していなかった。何せ、片腕を失ってから自分自身も不便さを感じていたからだ。義手を作り出すという手は、あくまでノーチェの機嫌を窺うためのものではあったが、結果としてクレーベルトも元の生活を送れるまでには快復している。その所為で絶えず魔力を垂れ流すことになったとしても、男は後悔のひとつも抱いていなかった。

 ――以来、ノーチェはクレーベルトに親身になることが増えた。身の回りの生活から、些細な雑用まで。まるで自分の責任を負うかのように。
 魔力の枯渇は最悪の場合命に関わる重大な問題となりかねない。いくら力を蓄えている器が大きくても、常に垂れ流しにしていれば、いつかは枯れ果ててしまう。その失った分を補うべく長時間の睡眠が必要になることを、クレーベルトだけではなくノーチェも知っていた。
 彼はきっと、その罪悪感から男に寄り添うようになったのだろう。
 ――しかし、だからこそクレーベルトには理解ができないことがあった。
 クレーベルトがノーチェからの告白を受けたのは、あくまでボスとして完璧な存在でなくなった頃からだ。それまでの彼は、懐く様子を見せていたものの、到底恋を覚えた青年には見えなかった。好戦的で、女を惑わす一面のある、手に負えない猛犬――それが、男が彼に抱く印象だった。