応星が衝動を抑えて抱き締めるのを止めるまで待ってくれた丹楓は、応星が離れたあとに軽く辺りを見渡し始める。自分の部屋に何故応星がいるのかを問いかけようとしたが、その前に誰かに気が付かれたら面倒だと言って、応星の手をぐっと引いた。
────だが、何日も眠っていた丹楓の体は少しばかり筋力が衰えている。応星の手を引いたものの、上手く立ち上がることのできない彼は目を丸くしていた。その表情がどこか可愛らしく思えて、小さく笑みを溢すと彼はムッと唇を尖らせる。どうやら丹楓は窓の向こう────庭の方へと向かいたいようで、応星に連れて行けと窓の向こうを指差して言った。
応星は肩と膝に手を回し、息を整えてから丹楓の体を持ち上げる。彼も応星に頼ろうとする意識があったため、抱き抱えるのは比較的楽だった。「お前さんは浮けるだろ」と何気なく口を洩らせば、丹楓は「ならば抱える前に言えばよかっただろう」と言って首に回した手を緩めることはない。
本来ならば部屋を出て廊下から出なければ行けない庭に、丹楓は部屋の壁を軽く押して出た。部屋には隠し扉がひとつしかないと思っていたが、窓の近くの壁にはもうひとつ存在していたようだ。取っ手も何もないそれを押し開けて浴びる夜風に、応星は深く息を吸う。何故だか風を浴びるのはとても久し振りに思えた。
それは丹楓も同じだったようで、彼は応星の腕の中で少しばかり心地よさそうにしている。そうして応星に下ろしてほしいと強請るものだから、応星は渋々丹楓の言う通りにそうっと地面へ足を着けてやった。────足を着けた途端によろめく彼の体を、応星はすかさず肩を寄せて支える。それに少しだけ驚いた表情を向けられたが、応星はそれに笑って返すだけだった。
丹楓の部屋では丁度見られない月が、煌々と辺りを照らしている。彼の部屋の周りは街頭が少ないせいか、街中よりも遥かに星が瞬いているのが分かった。月明かりの下で見る丹楓の顔を久し振りに間近で見た応星は、その顔の良さと綺麗さに思わずぐっと息を呑む。これも実は夢ではないのかと、頭の片隅で疑いを持っていた。
「…………それで、余は何日眠っていたのか……その間に何があったのか、聞かせてもらえるか」
彼は確かに自分が眠りに落ちていたことを認識していて、そうっと応星の顔を見やる。自分よりも背の高い応星を見上げるために、丹楓は上目を向けてきた。その事実に胸の奥からきゅうっと音が鳴ったような気がして、思わず視線を逸らしてしまう。「あんまりそういう顔向けんな……」と言えば、丹楓が腕の中で首を傾げたのが分かった。
応星は丹楓の疑問に応えるよう、丹楓が眠っていたときの話をする。あまりにも目を覚まさないから、いっそのこと脱鱗させようと企んでいた龍師たちの話。応星たちと仲がよかったからと現状を教えてくれた丹楓の側仕えの話。仙舟中に広まっている婚儀が先延ばしになった話など、応星は自分が知る限りのことを丹楓に話し続けた。彼はその間口を開くことはなく、黙って応星の話を聞き続ける。
そうして応星が話を終えた頃、漸く重い口を開いて「皆に迷惑をかけてしまったようだな」と言った。
「特に将軍には沢山の迷惑をかけた。婚儀の日取りを改めなければ────」
そう呟きを洩らす丹楓に、応星はぐっと唇を噛み締める。婚儀の単語を聞いただけで目眩を覚えるほどの不快感に苛まれてしまうのだ。今ここで言わなければ、応星はこの先何日も後悔をしてしまうだろう。
丹楓の肩を支える手に力がこもってしまったのか、彼は少しだけ痛がるように眉を顰めて応星を見た。不思議そうに「応星?」と呼びかける様は、どうして応星が力んでいるのかも分からない子供のよう。思わず応星はパッと手を離して「すまん!」と謝罪を溢すが、心の靄は晴れないままだ。今ここで言わなければ後悔をする────そう察している応星は、離した手をゆっくりと下ろすと、「俺じゃ駄目か」と呟きを洩らす。
「何────」
「その婚儀の相手は、俺じゃ駄目か?」
何の話だと口を紡ごうとした丹楓の言葉を遮り、応星は決死の覚悟で丹楓に問いかける。先程と同様に緊張で鼓動が早鐘を打っているのがよく分かった。それに伴い、全身の血液が体を駆け巡り、胴体には汗が滲む。恐らく丹楓から見た応星の顔は、赤く火照って見えていることだろう。それほどまでに熱が顔に集中していることだけは、十分に理解していた。時折吹く夜風が心地いいと思うほどに。
────夜ということもあって頬の赤みが分からなければいいのに、と願いを込めながら、応星は丹楓の顔を見つめた。ここで恥ずかしさから目を逸らしてしまえば、応星が折角丹楓を起こした意味がなくなってしまうような気がしたのだ。彼は応星の言葉の意味が上手く理解できなかったようで、瞬きを数回繰り返している。それに追い打ちをかけるべく、応星は教えてもらったことを丹楓に訊いた。
「婚儀の相手、代えられるんだろ? 俺は百冶の称号のお陰で、ギリギリ認められるって教えてもらったんだ」
本来ならば忌み者を屠るために必要だと思っていた称号ではあるが、思いもよらないところで役に立ったものだと応星は言った。今から代えは利くのか分からないけれど、試してみなければ応星の気は晴れなかった。
その応星の言葉に丹楓はハッとして、────それから一度だけ視線を逸らす。バツが悪そうな、それでいて悲しそうな表情を浮かべていて、「しかし」と彼は言う。
「其方には、そういう相手が…………」
いるのではないか、という言葉を言い切れずに呑み込み、丹楓は顔を俯かせた。
その様子を見て、応星は丹楓を起こして一番にしたかったことを思い出す。彼が無事に起きてくれたことによってすっかり忘れてしまっていたが、応星は丹楓の誤解を解いてやりたかったのだ。白珠との関係は単なる噂であり、彼女とは以前と変わらない家族のような関係であること。白珠に会っていたのは丹楓に渡す贈り物の相談をするためだと。
「いない。丹楓も分かってるだろ、俺は仙舟人の殆どに嫌われてることくらい」
応星がそうはっきり言い張ると、次に丹楓は決定的な名前を出してくる。
「だが、白珠は」
「何の関係もない。俺と白珠は家族みたいなもんだって言ったろ?」
「…………けど、噂が」
彼女との関係性を否定してなお、丹楓は苦しそうに表情を歪ませて言った。心なしか傷付くのを恐れている少年にすらも見えてくる。白珠との関係があるという噂があると聞いた、と丹楓はそう言って胸の前で不安そうに手を握っていた。────応星はその手を勢いよく握り締め、「何の関係もない!」と同じ言葉をはっきりと言い張る。
「噂は噂だ、景元が言ったんだろ。ただの根も葉もない噂だって」
「だが其方が白珠と二人で会っていたのは事実だろう」
握られた手に驚きを覚えつつ、丹楓は咄嗟に手を引こうと試みる。────しかし、そう簡単に逃がすつもりのない応星は、片手で丹楓の手を握りながら自分の懐に手を伸ばした。
「俺が、白珠と会っていたのは、お前に渡す贈り物の相談をしていただけだ……」
────応星は丹楓に無償の贈り物を続けていた。いつしかそれだけでは物足りなくなってしまった彼は、その一点の穢れもない体にどうにかして主張を施したくなってしまっていた。しかし、過度な装飾は明らかに彼の尊厳を破壊し、龍師たちからは怪訝な目で見られてしまうことだろう。下手をすれば贈り物をした応星が、丹楓自身に嫌われかねない。
そう不安がっていた応星は、誰よりも相談のしやすい白珠に話を聞いてもらっていたのだ。どうせだったら一目見て分かるような、けれど悪目立ちしない何かいい案がないかと。
そうして話を重ねて、漸く練り上げたその装飾は、丹楓の左耳にそうっと押し当てられる。小さな金具が彼の素肌に触れた。それに気が付いた丹楓は、手を引こうと再び試みる。丹楓が逃げるような素振りもないことに気が付いた応星は、彼の手を離してやった。
「…………これは」
応星の手に丹楓の手が触れる。その手に自分が作ったものを乗せて、応星はゆっくりと手を引いた。丹楓の手のひらに残されていたのは、赤い染色剤に彩られたタッセルピアスだ。菱形の金具が月明かりに照らされてほんのり輝いている。────それは、夢の中で彼がつけていたものと全く同じのピアスだ。
そのピアスを見かねて丹楓は唇を開けてはそうっと閉じて、言葉を失っているようだ。自分の手のひらと応星を交互に見て、普段なら無表情の顔を困惑に染めている。何故か見たこともあるような反応に、薄々気が付いていた応星は不服そうに溜め息を洩らした。やはり丹楓の夢にもそれが出てきていたのだろう。赤いタッセルピアスを揺らめかせた、「応星」の姿が。
「…………俺は、お前が他の知らない誰かのもんになるのが嫌だ……なあ、丹楓……俺じゃ、駄目か……?」
応星は震える手で丹楓の肩を掴み、自分に意識を向けさせる。いくら応星であっても、彼が今思い浮かべているのは夢の中にいた応星かもしれない。それすらも許せない応星は、今一度婚儀の相手は自分では役不足かと問いかける。みっともなく手は震えているが、応星に逃げるという選択肢はない。彼の肩を掴んでいるのは、丹楓に意識を向けさせるためと、自分が丹楓から逃げないようにと向き合っているためだ。
その意思を汲んでか、丹楓は一度だけピアスを握ると、応星の顔をじっと見つめる。「このピアスはひとつしかないが、片割れは応星が持っているのか」と言う問いに、応星は頷きで肯定を示した。悪目立ちはしないけれど、ふたつでひとつのものをそれぞれお互いにつけていれば、嫌でも応星と丹楓の関係性に気が付くだろう。────そういった相談をしていた白珠には、面倒なことに巻き込んでしまったと小さな反省をする。
応星の肯定にほうっと吐息を洩らした丹楓は、応星の目から見て酷く妖艶で、儚く見えた。
彼の吐息は安堵かそれとも失望か。────応星が緊張した面持ちで丹楓の言葉を待っていると、彼は不意に応星へと体を預ける。よろめくように体を前のめりにさせて、咄嗟に応星が抱き締めると「先を越された」と呟いた。
「余が其方に話を持ちかけようと思っていたのに」
そうポツリと呟かれた言葉に、応星はハッとする。話を持ちかけられたといえば、丹楓が自分を呼んだがそれを遮って白珠へと話を振った日。彼はきっと、その日に応星に婚儀の話をしようとしたに違いなかった。
「あのときは悪かった、その……」
「よい、もう……今日はこれで満足だ」
目先のことで丹楓のことに気を配れていなかった。応星は咄嗟に丹楓に謝ろうとしたものの、彼は応星の言葉を遮り、応星の腕の中で満足そうに呟く。ふと気が付けば、いつの間にか姿を現していた丹楓の尻尾が応星の足下にくるりと巻き付いているのが分かった。それは、月光を受けて煌びやかに、水面のように輝いている。
どうやら丹楓の満足いく結果を得られたようだ。────応星はほっと安堵の息を吐き、丹楓の体を強く抱き締める。サワサワと揺れる木の葉が二人を祝福しているような錯覚さえ覚えた。
「日は追って知らせる。其方、随分と顔色が悪いからな」
男前が台無しだと丹楓は応星をからかった。どのみち、丹楓も体の調子を戻さなければ婚儀は無事に進めることもできないだろう。
彼はピアスをつけることと、はっきりした言葉を当日に聞かせてほしいと応星に言った。自分は応星に想われていると、好きだと言われたいのだと。書物を漁り、恋に関して学んだ丹楓は、応星からの告白を待っていると。
それに応星は「もちろんだ」と丹楓に告げるのだった。