────パチン、と何かが弾かれるような感覚に、応星は意識が浮上していくことに気が付く。夢から目覚めるのではなく、夢から追い出されるのだと気付くと同時に、咄嗟にその陰を目で追った。最後に見た丹楓は、照れくさそうにしていながらもどこか寂しそうに顔を俯かせていた。
そうして目を覚ますと見慣れた天井が視界に映る。瞼は重く、ほんのり痛む頭を押さえながら体を起こすものの、気怠く気が滅入りそうだった。正直な話、一睡もできていないような感覚がするのだ。何日も徹夜をしたような重さに彼は「はあ」と溜め息を吐いて、ちらと部屋の中を見た。
────そうして自室の異変に応星は呆然とする。
意識を失う前は書物や何やらが床に散乱し、足の踏み場も見失うほどの荒れ具合だった。それが、知らない間に綺麗に片付けられていて、久しく見ていなかった床が顔を覗かせている。よく見れば埃すらもひとつないほどに綺麗にされているのだ。
仙舟にいる唯一の短命種である応星の家に好き勝手入る仙舟人など限られていて、応星は大して警戒をするつもりはない。────するつもりはないが、ここまで掃除をされていても全く気が付かなかった自分に、ゾッと背筋が凍る感覚に陥る。言葉を失いながら応星は頭を掻き、徐に寝具から足を下ろす。久し振りに踏み締めた床の感触に呆けていると、不意に近くにある机の上の紙切れに気が付く。
薄暗い部屋の中でその紙切れに手を伸ばすと、ふと応星は自分の家がやけに暗いことに気が付いた。
応星は軽く辺りを見渡し、窓の外を眺める。意識を手放す前は丹楓がいるであろう屋敷で出待ちをしていた関係上、日は昇っていたはずだ。その太陽が今はすっかり鳴りを潜めていて空の色は濃紺に染まっている。体感時間にしてはせいぜい数時間、或いは数十時間が経っているような気がしているが、部屋の具合から見て恐らくそれなりの時間が経っているのだろう。じっと空を見つめれば、転々と星々が瞬いている。その向こうには煌々と輝く満月が見える。いやに綺麗な月だ。
応星が身を寄せている家屋は極力他人との関わりを持たないように、できる限り人気の少ない場所にある。────それでも彼は、基本的な寝食の殆どを工房で済ませているため、この家に帰ることが殆どない。だからこそ埃がそれなりに溜まっていたのだが、足を着けた床にざらついた感触は全くないのだ。この家は応星が気が付かない間に丁寧に掃除をされている。────それも、応星が眠っている間に。
身の回りで応星の家を掃除してくれる人と言えば、せいぜい白珠くらいだろう。しかし、彼女とは丹楓の現状を知ったあとに別れたばかりだ。そんな彼女が応星の眠りを妨げても掃除をするだろうか。
「うーん…………」
白珠がそんなことをするとは思えない。何せ彼女は応星に休むようにと念を押してきたのだ。そんな彼女が果たしてわざわざ音を立てるようなことをするのだろうか。
頭を捻りながら応星は唸り、何気なく手を伸ばした紙をちらりと見やる。────だが、部屋の薄暗さのせいで応星は紙に何が書かれているのか、よく読めなかった。ここ最近は老化による視力の低下も否めないな、などと自嘲を洩らし、立ち上がって明かりを点ける。パチ、と小さな音が鳴ったあと、月明かりよりも遥かに眩しい明かりが応星を照らす。ほんのり目の奥に痛みを覚えながらそっと手元の紙に視線を落とすと、白い紙に殴り書きのようにメモが書き記されている。
『応星が眠ってから二日が過ぎちゃいました』
丁寧なような、どこか雑に書かれているような出だしに、応星は目を丸くする。応星の体は確かに疲労が溜まっていて、眠気は全く取れていない。つい先程目を覚ましたばかりではあるが、応星の感覚としては眠ったのは日中から夜になった程度の、数時間ほど前のことだ。それが夢を見ている間に二日経ってしまっていたようで、彼は言葉を失っていた。
「どういうことだ……?」
そう独り言を呟いて応星は手元の紙をくしゃりと握る。軽く目を通しただけではあるが、概要は全て把握したのだ。目を覚ますために左右に頭を振ってから、冷水で顔を洗うために洗面台へ向かう。
パシャリと水を浴びると火照った顔が一気に冷え、思わず呼吸が止まる。それを数回繰り返すと眠気が引いていく感覚がして、タオルを顔に当てる頃には視界がはっきりとした。鏡を見れば目元に隈が存在して酷い顔をしているのが分かる。思わず苦笑を洩らして深く息を吐いてから、「よし」と応星は意気込んだ。
応星が眠ってから二日が過ぎているという白珠のメモには続きがあった。丹楓は相変わらず目を覚ます兆しがなく、本格的に脱鱗を視野に入れている話と動きが出たという。景元は様々な書物を漁り、鏡流と白珠は何かを掴めないかと人々にそれとなく話を聞いていた。中には婚儀が行われていないことを察して訝しげな顔をする仙舟人を、時折宥めていたらしい。
応星に話をしようと家に立ち寄った白珠は、揺さぶっても少しも目を覚まさない応星に恐れを抱いたようだ。彼もまた、丹楓と同じ目に遭っているのではないかと。気晴らしに昔話をしつつ部屋の片付けをしてみたものの、物音に身動ぎすらしなかった応星に死が近付いているのではないかと。
彼女が残した書き置きには微かにシミができていて、恐怖からか涙ぐんでいたような想像が安易にできる。「どうか目を覚ましたら教えてください」といって締められた紙切れに、応星は部屋を漁ってどうにか見つけた一枚の切れ端を机の上に置いた。
返事はひとつ。礼を述べてからもう一度丹楓の元に行ってくる、と書き残す。直接顔を見られないことへの罪悪感はあったが、衝動は応星の背中を押すばかりでいてもたってもいられなかった。
────応星は夢を見ていた。現実と大差のない境界線が虚ろな夢だ。そこで彼は丹楓に会い、短い時間で話をしていたはずだ。それも、一時間にも満たないような短さだ。────だが、いざ目を覚ましてみれば現実では二日が過ぎているという。信じられないような現象ではあるが、応星はあの夢をただの「夢」で片付けられるようなものではないような気がしてならなかった。
現実と全く同じ好いた相手。それは、あくまで応星の願望を叶えるためだけに動いていると言っていたが、実際はまた別の理由があったのだろう。黒い髪の隙間から覗く耳を飾る赤いタッセルピアスが何よりの証拠だ。
────あれは、応星が知る丹楓にはないものだった。
「…………っと……これも……」
勢いのまま家から出ようとした足を止め、応星は戸棚から小箱を取り出す。何かしらの装飾を施して見た目も良くしようと考えていたが、結局何も決められずに時間だけが過ぎていってしまった代物。それを懐に入れてから、応星は自宅の扉を開けて外へと飛び出した。
丹楓は未だに夢に囚われている。────願望を叶えるためと応星の夢には丹楓が出てきていた。必死に会話を試みようとして、恋人らしくあろうと振る舞おうとした彼の様子は、恋愛を知らない丹楓がこうだったら可愛いのにと応星が思っていたことだ。彼は忠実に応星の望みを叶えようとしていて、応星はそれがとても嬉しかった。夢だとしても、一時的に自分の望みが叶ったような気がしていた。
────しかし、風が吹く度。首を傾げて黒い髪が揺れる度、赤く彩られたそれが応星に「手を出すな」と言ってくるのだ。お前が手を出していい人ではない、と応星を牽制し続けて来るのだ。
彼は言っていた。応星は所有の意識が強いと。特に気に入っているものは絶対に他人の手に渡らないよう、手を回しているのが気付かれているような発言に、背筋が凍ったのを覚えている。まるで、丹楓に他の誰かが近寄らないようにしていることが気付かれたような気持ちだった。
────それも、彼が何だったのかと仮説を立てれば、気持ちが気付かれているのが不思議ではなかった。彼は本当に応星の願望を演じていただけではあったが、時折見せてくる寂しそうな表情は一切隠し切れていなかった。
不甲斐ない男だと思う。好きな相手の気持ちも汲めない愚かな男だと。
夜空の下を駆け、応星は息を切らしながら丹楓がいる屋敷へと辿りつく。日中とは異なって人気のない屋敷は、鳥の鳴き声と星々の瞬きでほんのり不気味ささえも感じた。龍尊が目を覚まさないことも相まってか、何やら葬式のような雰囲気が漂っている気がする。
その空気を切って、応星は抜け道へと向かう。木陰の間を縫って、屋敷の廊下から隠し通路を探り当て、狭い隙間を一人潜る。先日までは意識を奪いかねない強い眠気が意識を揺さぶったが、今は雲が晴れたようにスッキリと頭が冴え渡っている。応星がしようとしていることの邪魔をしたくないのか、それともそれが彼の望みなのかは定かではない。
ただ、彼を悲しませる相手を一発殴ってやりたいような気持ちは確かにあった。
狭い通路を潜った先にある隠し扉を押し開けて、応星は丹楓の個室へと入り込む。外とは隔絶されたようなシン、とした静寂に、ほんのり寂しさを覚えながらそっと歩みを進める。
部屋の中心に、彼は確かにいた。この間と全く同じ姿のまま、丹楓は丁寧に寝かされている。月明かりも届かない仄かに暗い部屋の中で見る丹楓の顔は、まるで死人のように白く見えた。寝息は耳を澄ましてもギリギリ聞き取れるかどうかの小ささで、思わず指先が冷えていく感覚に陥る。彼は本当に死へと向かっているような気がしてならなかった。
持明族に死はない。そう知っていてもなお、応星は不安に駆られてしまう。彼らは海へ帰り卵へと戻る。そうして月日が流れて再び同じ姿で生まれ落ちたとしても、生前の記憶がなければそれは死と呼べるのではないだろうか────。
応星は拳をきゅっと握り締め、呼吸を整える。恐怖すらも覚えてしまうような静寂に包まれた彼の部屋に、いるのは応星と丹楓の二人だけ。到底誰かがこの部屋に訪れるような気配はなく、応星は誰かに来訪を見つかる気がしなかった。たとえ誰かに気付かれたとしても、目の敵にはしているだろうが、それは丹楓の側仕えである彼女だけだろう。
徐に自分の胸元に手を当てて、応星は自分の心音を確かめる。バクバクと音を立てて忙しなく動いているこの心臓が、緊張から来るものなのか恐怖から来ているのかは分からない。────ただ、今から自分が行おうとしていることが、応星にとって緊張するものであることは確かだ。彼は言っていた、自分がどう起こされているのかを。それを行動に移すには少しばかりの時間と覚悟が必要で、応星は深く息を吐きながらふと辺りを見渡した。
万が一監視の目がありでもしたら応星は羞恥心と持明族の手により、心身共に死を迎えかねない。その万が一のことに備えて辺りを警戒していると、不意に部屋の一角に妙な塊があることに気が付く。今は丹楓第一ではあるが、少しでも気持ちを落ち着かせたいばかりに応星は徐に彼の元から離れる。
上質な布に覆われたそれに手を伸ばし、物音を立てないようにそっと捲れば、応星の視界には見慣れた物が映り込む。必要最低限の物しかないと言っていた丹楓の部屋を、どうにか飾ってやろうと思い、相手の気持ちも考えずにひたすら贈り続けた物の数々。それらが布の下から顔を出したとき、応星は思わずポカンと口を開いてしまう。
彼に贈ったのはもう何ヶ月も前のことだ。それらが応星の思惑通りに飾っていられれば、それなりの月日を跨いだ結果として埃や、紫外線による劣化などが見られてもおかしくはない。それなのに、応星が見た装飾の数々は痛まないように布の下に隠された上に、少しの手入れも怠ってはいない綺麗な姿のままだ。
唯一表に出ている物と言えば、部屋の中に香りを運んでくれる花を活けている花瓶のみ。白地に青の柄を加えた質素なものを、丹楓は使っているようだった。────実際は丹楓ではなく側仕えの者が丹楓の代わりに手入れをしているのかもしれないが、それでも大切に扱われていることに彼は思わず目頭が熱くなるのを感じた。
何せ応星は殊俗の民であり、百年程度しか生きられないような短命種だ。自分を劣っていると馬鹿にしてくる仙舟人に対する敬意は銀河に投げ捨て、思うがままに傲慢な態度を振る舞い続けてきた。その応星が見返りを求めず贈った相手は、かの有名な龍尊、飲月君。彼は持明族であり、その長だ。応星が恋をするにはあまりにも相手が悪すぎて、贈り物をしてもすぐに処分されてしまっていると思っていた。
けれど、実際は自分の部屋に置いておくほど大切にしてくれていて。贈り物のひとつを軽く撫でて「よかったな」と小さく呟きを洩らす。
大切にしてもらえてよかったな、と。手入れまでしてもらえてよかったなと、そう言って布を元の位置に戻した。彼がどのような気持ちで布をかけたのかなど、今更重要視するものではない。殊俗の民が贈った物を、彼はひとつも手放すことなく近くに置いてくれていたことが重要なのだ。
────そう実感していれば不思議と心も落ち着きを取り戻し、微かな緊張が応星の背中を押す。未だに眠っていて目を覚ます兆しのない丹楓に近付き、その場に膝を突く。そうして覆い被さるように丹楓の顔の隣に手を置いて、真上から彼の顔をまじまじと見た。丹楓の眠っている顔はとても綺麗で、穏やかな顔をしている。それでも疲れ切ったような疲労の色は拭えず、見ていて不安になる繊細な寝顔だ。
「────……本当に起きるんだろうな」
ドクドクと早鐘を打ち始める心臓に、気を紛らせるような呟きをひとつ。彼の言う通りであれば、丹楓はこれで目を覚ましてくれるはずなのだ。目を覚まさなければ、応星に残るのは強い羞恥心と、絶望だけだ。
ふ、と応星は短く息を吐いて、自分の顔を丹楓の顔へとぐっと近づける。唇が触れ合うほんの数センチで応星は少しだけ尻込みをして、動きを止めた。丹楓の微かな呼吸が分かるような距離で、不甲斐ない自分自身に苛立ちを覚える。これがただの自惚れだったらと思うと足が竦むのだ。
「…………頼むから起きてくれよ」
────それでも後には引けない。
応星は意を決して強く目を瞑ると、そのままの勢いで丹楓に触れるだけの口付けを落とす。ほんの数秒だけの接触ではあるが、彼の唇の柔らかさが十分に伝わってからそうっと唇を離した。応星は男で、短命種で言えばそこそこいい年齢だ。────それでも少しは手入れをするべきだったかと、ほんのり不安を覚える。応星の読みが当たっていれば、彼は目を覚ましてくれるはずなのだ。
一秒が一分に、一分が一時間に感じられるようなゆっくりとした時間の中で、応星が耳にしているのは自分の鼓動のみ。ドキドキと脈打つ音だけが応星に時間の流れを教えてくれているが、丹楓は未だに目を閉じている。
「…………丹楓……」
彼の言っていたことは嘘だったのだろうかと、緊張が不安に塗り変わろうとしている最中でふと、自分の声が震えていることに気が付いた。────やはり応星は、この丹楓を失ってしまうことが恐ろしくて堪らなかった。
「……丹楓」
自分の不安をどうにか払拭しようと声をかけてみる。今まであまり呼ぶことのできなかった名前を、話せなかった分の時間を埋めるように。丹楓、と呼び続ければいつか痺れを切らした彼が「鬱陶しい」と言ってくれそうな気がしたのだ。
「────丹楓ッ」
それでも目を覚ましてくれない彼に、応星は焦燥感に苛まれながら声を張り上げた。咄嗟に顔の隣に置いている片手を頬に当てて、「どうしたらいいんだよ」と独りごちる。お前がいない世界で生きていく意味なんてないだろうが────なんて口を洩らすと、不意に彼の瞼が微かに動いたような気がした。
「……丹楓? なあ、聞こえるか?」
その微かな動きを見逃す応星ではない。彼は丹楓と再会してからその動向を絶え間なく見守ってきたのだ。彼の一番は自分でなければ気が済まない。彼の隣を自分以外が居座ることは許せない────そんな執着心を抱えていれば、丹楓の些細な変化など容易く気付けてしまう。
応星は丹楓の頬を軽く叩いて目を覚ますように煽った。ペチペチと小さな音のあとにふと、頬の微かなぬくもりに気が付く。まるで死人同然だった肌の温度が、ほんの少しぬくもりを帯びているような気がした。
そして。
「…………う……ん…………」
「……丹楓……! 俺が分かるか?」
「…………おう、せい……?」
小さな身動ぎと共に、丹楓がゆっくりと瞼を開ける。そのまま自分の眼前を埋める一人の男を不思議そうな顔で見てからその名前を呼んだ。重い瞼をこじ開けたかのような青い瞳は、まだ少しだけ眠気を湛えているように見える。
「よかった……!」
「う、……応星、何だ……」
その丹楓を衝動的に抱き寄せると、彼は驚いたように体を強張らせて応星の背を叩いた。認識と意識ははっきりとしていて、以前のようにすぐに眠りに就くような素振りは見られない。丹楓が離せと言わんばかりに背を叩くが、応星はそれを無視してただぎゅっと、彼の華奢な体を壊れんばかりに強く抱き締めていた。