恋、患い4

 木陰を渡り、廊下の隙間から隠し通路に入り、狭苦しい道を抜けた先に丹楓の自室がある。────そう紹介を受けながら薄暗い道を進み、物音を立てないように細心の注意を払う。この道は飲月君が抜け出すために作られた隠し通路です、と彼女は言っていて、その意外性に応星は目を見開いた。あの見目麗しい龍尊、飲月君がこんな道を通るなど思いもよらなかったのだ。近頃は吹っ切れて堂々と窓から抜け出しましたが、と彼女は付け足していたが、それすらも彼らしくて思わず笑いが込み上げてくる。
 応星に会いに行くと言えば誰もが力尽くで止めにかかっていただろう。殊俗の民の言うことなど聞いてはいけませんだなんて言って、懸命に丹楓に考え直すよう説得していたに違いない。────その小言を払って堂々応星の元に来ていたという丹楓に、応星は思わず笑みを浮かべてしまった。
 突き当たりにある隠し扉を開いて顔を出せば、そこは既に丹楓の部屋の中だという。
 彼女が先陣を切って入った後に続き、応星と景元がその扉を抜ける。すると、仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐってきたのが分かった。何らかの花の香りが部屋に漂っていて、空気の循環を促すために窓が開いている。屋敷を正面にしただけでは分からなかったが、丹楓の部屋から見える窓の外は、静かな景色が広がっているだけだった。まるでこの部屋自体がどこか別の洞天にでも切り離されているような空間だ。
 静かで物音があまり聞こえてこない。なんて心地の良い空間なのかと感心していると、一人で過ごすにはあまりにも広い部屋の中心に、彼はいた。

「丹楓……!」

 丁寧に敷かれた布団の上に寝かされている丹楓は、誰の来訪にも気が付くこともなく目を閉じている。咄嗟に駆け寄ってみたものの、彼の寝顔は不気味なほど綺麗で、けれどどこか顔色は悪く見えた。景元や側仕えの持明族は応星を止めることはなく、二人で何かしらの原因はあるのかと話し合っている。
 試しに肩を揺すってみたが、丹楓は到底目を覚ますようには見えなかった。

「飲月君は近頃、不自然なほど眠りにつくことが多くありました。本人は自覚がないようでしたが、業務の最中、突然糸が切れたかのように意識を失うことも多々あったと言います」

 眠っているはずなのに目元には薄らと隈が刻まれていて、酷く疲れ切っているようにすら見える。彼の白い肌が尚のこと顔色の悪さを引き立ててしまい、応星は胸騒ぎを覚えてしまった。彼女曰く丹楓の異変に気が付いた龍師たちは、脱鱗のことも頭の中に入れておかなければならないと話をしていたという。持明族特有の輪廻転生を、応星は丹楓の口から聞いていたことがあった。
 脱鱗してしまえば、彼はもう応星が知る「丹楓」ではなくなってしまう。────そう思えば足下から崩れ落ちるような錯覚を覚え、全身から血を抜かれたような寒さを感じてしまう。そんなことはあってはならない、丹楓が丹楓でなくなるのはまだ早すぎる。
 咄嗟に応星は彼女に「何が切っ掛けでこんなことになったんだ」と聞いた。丹楓の頬は応星の体温より低いことが多いものの、それでも普段よりも遥かに冷たい印象を受ける。心なしか呼吸音も小さいような気がして、今にも死に向かって歩いているように見えてしまった。

「切っ掛け……恐らく、婚儀に向けて動き出してからかと」

 彼女は応星の問いに淡々と答えた。丹楓は婚儀に向けて後回しにしてきた業務を日々こなしていった。婚儀の後もいくらか休息が取れるようにと、いくつもの業務を抱えては何日も遅い時間まで起きていることが多かった。────その結果として、度々眠りに就くことが増えたのだと彼女は考えているようだ。
 しかし、何日も一度も目を覚ますことがない現象が続けば、嫌でも別の何かが作用しているのではないかという懸念が顔を出してくる。誰もが気を遣い始めるほど顔色が悪くなってきているというのに、本人だけは何も気にすることがないまま業務を遂行していたと彼女は言った。
 その違和感に、応星はつい「丹楓の側仕えなのにか?」と口を出してしまう。

「丹楓の側仕えなのに、止める素振りも見せなかったのか?」

 彼女はこの屋敷の中で誰よりも丹楓に寄り添っていられる持明族だ。そういう役割を割り当てられているのだから、主人の容態を気にするべきだったのではないかと、応星は指摘をする。その口振りに景元が咄嗟に「応星」と口を挟んだが、応星は止められることはなかった。

「そもそも、婚儀ってやつはこんなになってまで執り行わなきゃならんもんなのか?」

 頼むから詳しく教えてくれ。────そう言ったとき、応星の指摘に眉ひとつも動かさなかった彼女の瞳が鋭くなったのを、応星は見逃さなかった。それは、先程外で見た敵意を剥き出しの彼女の目付きだ。思わず応星は息を呑んだが、それでも引くことなく「頼む」ともう一度言えば、彼女は怒りに身を震わせながら唇を開く。

「貴方は本当に何も知らないのですか…………飲月君本人から、何も……」
「丹楓から……? 何も聞いていないが……」

 そう告げれば────彼女が手を振り上げると同時に、景元が咄嗟に彼女の体を押さえつける。先程の冷静さなど欠片もなく、衝動に身を任せたであろう彼女の表情は鬼のようと形容されるほどだ。彼女の荒々しい表情に、応星は確かに驚きはしたものの、不思議と納得するような心地になる。丹楓は多くの持明族から信頼を寄せられている龍尊だ。その彼を窮地に立たせているらしい原因が応星にあるとすれば、怒り狂いたくなるのも理解ができる。
 しかし、それでも彼女は大の大人で、男である景元には力が及ばないようだ。正面から受け止められ、「落ち着いて」と声をかける景元の声色は穏やかで、凪いだ海のよう。君が怒りたくなるのも分かると、同情を見せつつ懸命に宥めると、────彼女はゆるゆると腕を下ろした。

「…………婚儀とは……同盟関係を、よりよくするための、単なる意思表示です」

 ふうふうと呼吸を荒くしながらも、彼女は丹楓の問いに答えるべく言葉を紡ぐ。形式上のものではあるけれど、互いに協力関係であろうという誓いを立てるためだけの大切なものであると。互いに仲に亀裂がないことを示して、仙舟全土に安心感を与えるための、仙舟にとっては大切であろう儀式のことだと。
 その儀式を、あろうことか丹楓は何年も何年も先延ばしにし続けてきていた。このような儀式を挙げなくとも同盟関係は揺るがないと何度も言って、婚儀を拒絶し続けていた。確かに彼の言う通り、執り行わなくとも同盟関係は決して崩れるようなものではなかったものの、受け継がれてきていた習わしは仙舟に伝わっている。未だに執り行ってもいない婚儀の行方を、水面下では誰もが心配していたのだ。
 将軍はもちろん彼らの反感を気にして、龍師を使い、丹楓に妥協案を提示した。彼は丹楓が誰と関係を持ち、誰と親しいのかをしっかりと把握した上で、相手を代えるのはどうかと言った。────それが、仙舟人が避けたがっている応星だった。

「飲月君は、自らの口で、貴方に話をしようとしたはずです。百冶という称号のお陰で、貴方を一時的に仙舟の民として認められると。────数日後に執り行われる婚儀の相手になってほしいと」

 何故そのことを貴方は知らないのですか。
 ────彼女はそう言って景元の向こうから応星を一瞥していた。氷の刃のように冷たく鋭い切っ先が、喉元に突きつけられているようで、応星は息をすることを忘れてしまう。もしも彼女が応星に告げたことが真実であるのならば、自分は何故そんな重要な話を聞いていないのか。妙に働かない頭で懸命に思考を巡らせていると、記憶の奥底で丹楓が小さく首を左右に振ったあの日を思い出した。
 もういいと、話をすることもなく切ったあの会話でしたかったのは、この話ではなかったのだろうか。いやに神妙な面持ちで話を切り出したかと思えば、酷く傷付いた様子で全てを諦めたのも納得がいく。誤解に身を投じたまま、全てを忘れるために過酷な環境下に自らの意思で飛び込んだのかと思えば、突然倒れて眠ってしまう現象に見舞われるようになったのも納得ができる話だ。
 ────しかし、それでは。それではまるで、丹楓が応星に想いを寄せていることの裏付けのようで。応星は決して自惚れることがないよう、小さく頭を振ってそんなはずはないと独りごちる。丹楓と自分はあまりにも身分が違いすぎて。自分の錯覚だといわれた方がマシだと何度も思って。────だが、丹楓の応星に対する接し方や距離感を指摘されれば、本当に自惚れていても良いのではないかと、思ってしまって。
 突然突きつけられた情報に応星が呆然としていると、彼女は溜め息を吐いてくるりと踵を返す。もう少ししたら出て行くようにと極力感情を抑えた声色で、部屋の扉に手をかける。事態が終息することはないものの、あまりにも長い間姿を見せなければ応星たちを招いたことを勘ぐられかねない。これ以上の厄介事を増やさないためにも、早めに隠し通路から外へ出て行くように告げて、彼女は部屋を後にした。
 置き去りにされてしまった応星と景元は、何も言わない数秒を部屋の中で過ごす。丹楓の顔は穏やかな寝顔そのものではあるものの、やはり目を覚ますようには見えない。こうして話していた最中でも彼は深い眠りに就いている。

「…………応星、取り敢えず出よう。私は先に行って外の様子を見るから、後から来てくれるかい」

 景元は声を落として応星に話しかけるが、肝心の応星は返事をしないままぼうっと丹楓を見つめている。沈黙を肯定と認識して、景元は「ちゃんと戻ってくるんだよ」と一言だけ置き去りにして隠し扉を開けて行ってしまった。
 残された応星は飽きもせず丹楓の寝顔をじっと見つめている。もしもあのとき丹楓の話を聞いていたら、何かが変わっていたのかもしれないと後悔の波が押し寄せてきた。彼は何度も打ち明けようとしていたのに、己の私情を優先したせいで丹楓を傷付けてしまっていた。その事実があまりにも悔しくて、深く、深く溜め息を吐く。豊穣に対する憎しみの他に、不甲斐ない自分に対する強い怒りを覚えたような気がした。
 丁寧に寝かされている丹楓の頬を軽く撫でて、その冷たさをどうにか緩和してやろうと試みる。じんわりと奪われていく自分の熱に、このまま本当に目を覚まさなかったらどうしようかという一抹の不安が足下に絡みついた。

「…………丹楓」

 返事が返ってくるとも思わないまま、応星はポツリと彼の名前を口にする。凜とした佇まいにしては丸みのある響きの名前を、応星はあと何度口にできるのだろうか。名前を呼ばれる度に丹楓は律儀に返事をして、酒を注げば満足そうに微笑んでいたが、もうあの顔を見ることはできないのだろうか────。
 ────そう、感傷に浸っていると、不意に丹楓の瞼が震えた。

「た、丹楓……! おい、俺が分かるか!?」

 丹楓の顔を覗き込んでいる応星が間近で見て漸く視認できる程度の震えに、応星は極力声を抑えながら呼びかける。長い睫が生えている瞼が震えたあと、ほんの数センチだけ開かれた瞳は青く輝き、ゆっくりと応星を視界に捉えた。
 目を覚まさないと騒がれているものの、丹楓が目を覚ましたことに喜びを覚えた応星は、咄嗟に「誰かを呼んでくる」と丹楓に言う。自分がどれほど持明族に邪険に扱われようが、到底気にも留めない素振りで頬に添えていた手を離そうとすると────、ふと丹楓が小さく笑ったように見えた。

「これも、夢か」

 其方はどの夢でも現れてくれるものだな。────そう言って再び目を閉ざしていくのを、応星は黙って見送ることしかできなかった。何せ彼が呟いたのは、暗に応星が夢に出てきているらしいとのこと。それも、一度や二度ではなく、どの夢にも出てきて来るものなのだと。まるで、自分と全く同じ現象に見舞われているかのような発言に、応星は言葉を失っていた。
 万が一自分が夢の中にいる丹楓を受け入れてしまっていたら、現実の丹楓と同じ状況に陥っていたのかもしれないと思って。────もしも、丹楓が自分と同じ状況にあるのなら、ある種の解決策があるのかもしれないと思ってしまって。

「────……!」

 そうして不意に聞こえてくる足音に、応星は後ろ髪を引かれながらも咄嗟に隠し扉に手をかけていた。